エンカウント ライブラリー

第二話 「のぞみとレース」
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時計を見ると午後三時だった。
のぞみは駅から続く通りにある喫茶店で遅い昼食を食べていた。朝からの仕事が午後一時に終わった日は、自転車で二十分ほどのこの喫茶店に来てサンドイッチなどを食べながら本を読む。しかしこの時間は昼休憩とはちょっと違う。のぞみはタイムカードを切ってここに来ているのだ。
本来なら早番のシフトは朝の九時から午後四時まででその日の仕事は終わりなのだが、他の職員は子供がいたり他の仕事と掛け持ちしていたりで上手く二交代制で回すことができない日もある。そんな時はのぞみが朝から午後の早い時間まで仕事を行い、また夕方から出勤して閉館作業を行うのだ。
図書館側も求人を出しても人が集まらないので今の人数でやっていくしかないし、職員側も出られるシフトが限られている中で仕事を失わずに済んでいるので両方とも助かっている。のぞみとしても、仕事は好きだし今のところ体力的にも無理はないから一挙両得だ。仕事が朝と夜に分かれていたら自分の時間が作りづらいんじゃない?と聞かれることもあるが、家にいてもどうせ本を読んでいるだけだから図書館にいても喫茶店にいてもさほど変わらない。

のぞみは読んでいた本をパタリと閉じて窓から空を見上げた。
夏休みまであと少しで下校する学生もどこかしら浮ついた雰囲気だが、空の太陽はそんな若者を刺激するように熱く輝いている。

「あれ?のぞみ。もう行くの?」
「はい。今日は天気がいいので散歩しながら図書館に戻ります」
のぞみはレジに伝票を出しながらそう言った。
でも散歩というのは建前で、ちょうど本がキリよく読み終わったからだ。鞄にはもう一冊本が入っているが、ここで読み始めたらあと一時間は席を立てなくなりそうだったのでやめておいた。その代わりに喫茶店から図書館に向かう道の途中に大きな公園があるからそこに寄ることにした。さっき読み終わった本の中にも公園が出てきていた。雰囲気はだいぶ違うが、それでもその公園の中で物語を思い返してみるのもいいかもしれない。
「先輩は何時までですか?」
「今日は五時まで……って、先輩はやめてって言ってるじゃない。もう学校じゃないんだから」
「あ、つい……」
「まぁ別にいいけどね」
そう言って店員はお金を受け取り、レジに打ち込んで出たお釣りの金額を確認する。するとテーブル席の方から別の店員が声を掛けてきた。
「神下さん、カフェラテ二つにエスプレッソ一つ」
「あ、はい。じゃあまたね、のぞみ」
店員はお釣りを渡しながらのぞみを見送った。
「はい。茉理さんも頑張ってください」
そう言ってのぞみは喫茶店を後にする。

のぞみは彼女がいるから昼食のために二十分かけてこの喫茶店に来ているのだ。
彼女の名前は神下茉理(かみしたまり)。
二人は高校から一緒だったが、それでものぞみが一方的に知っていただけで付き合いはなかった。茉理はのぞみの一年上の先輩だったし、茉理は高校時代から目立つタイプの生徒でのぞみはその逆。
高校の頃から背が高く顔が小さくてモデルのような体型だったため、男子はもちろん女子からも人気があった。それゆえか茉理自身も調子に乗って髪を染めたりピアスを開けたりもしていた。今でもその名残なのか、肩にかかるぐらいの髪の毛先だけ赤く染めている。もちろん当時は校則違反だったので先生から何度も呼び出されていた。だから目立つといっても悪目立ちしていたことの方が多かったように思う。
そんな茉理とのぞみが関わり始めるようになったのは大学から。茉理が行った大学にのぞみがそうとは知らずに進学したのがきっかけだった。友人の先輩に自分の出身校の話をしたら茉理と引き合わされた。のぞみは少し緊張していたが、大学に入って丸くなったのかそもそもそういう性格なのか、その頃はとても気さくないい先輩になっていた。
三人姉弟の長女で下が弟二人なためか少し男勝りなところもあるが、その分面倒見がよく大学生活中はのぞみも随分世話になった。
茉理は大学卒業後に就職して地元を離れたが、二年ほど前にまた戻ってきた。その時すぐに連絡を受けたのがのぞみだった。それから頻繁に会うようになり、茉理があの喫茶店で働き始めてからはそこに通うようになった。
のぞみの理解者である茉理がいる喫茶店は居心地がいいし、それに茉理が許してくれているおかげでコーヒーと軽食を頼んだだけで三時間居座っても店員から迷惑な視線を向けられない。もちろん店が混んできたら出て行くが、いつもは夕方の出勤時間の四時ギリギリまで喫茶店にいて本を読んだりカウンター席に座った時なんかは茉理とおしゃべりをしたりする。
それが今日は茉理が驚くぐらい早い時間に店を出た。たまには太陽の光をゆっくり浴びるのもいいだろう。
自転車を引きながら歩いて数分で着く公園の日陰になっているベンチに座ったのぞみ。でもいくら日陰でも通る風は生温く、そして公園に着くまでに暑さにやられてしまったので断念してすぐに図書館に向かうことにした。

図書館に着いた時にはもっと汗をかいていた。できるだけ日陰の道を選んできたが、この暑さはどうにもならない。思い切ってスクーターでも買おうかと考えているが、でもそれだと生活の中でまったく運動をしないことになってしまうので悩んでいる。
汗を拭いたあとに更衣室のロッカーに掛けてあるポロシャツに着替え、夕方の勤務開始時間までの三十分を休憩室で待つことにした。冷房が効いているここなら火照った身体を冷やしてくれる。喫茶店で読まなかった新しい本をもう読み始めてしまおうかと思ったが、更衣室から休憩室に出るとさっきはいなかったバイトの子がいた。
「あ、のぞみさん。お疲れ様です」
「お疲れ様。休憩?」
「あ、いえ。私、勤務時間が終わったらすぐに出なきゃいけないんで、今のうちに引き継ぎしちゃってもいいですか?」
「……?うん、いいけど」
この図書館には顔を突き合わせて引き継ぎを行わなきゃいけないほど重要なことはそんなにない。だいたいがノートで済ませられる。現にその子も引き継ぎノートを持っていた。
「これなんですけど……」
開いて見せたところには今日の日付と連絡事項が書いてある。

『長岡様という方(70代男性)がレースに関する本を探しているとのこと。題名は正確に覚えておらず”絆”というフレーズがあった気がするとのこと。作者は○○園子だったとか。検索お願いします。武藤佳』

「この長岡さんという方が『豊崎さんという女性の係員はいるか』と聞いてきたんですけど、のぞみさんのお知り合いですか?」
のぞみは少し頭をひねる。
「女性の方なら長岡さんという方は知ってるけど、その方のご主人かしら」
「そうかもしれないですね。長岡さんは、その本を私がすぐに見つけられなかったのでまた明日の午前中に来ると言っていました。もしかしたら妻が来るかもとも言ってましたけど」
「そう?じゃあそれまでに探しておくわ」
「すみません。私もパソコンで検索してみたんですけど上手く見つけられなくて」
「何で検索したの?」
「普通に『レース』『園子』で検索したり、モータースポーツのジャンルで探したり」
検索の仕方は間違ってはいない。もちろんのぞみも佳のことを信頼していなわけではない。要は、その検索フレーズもう省いてもいいわけだ。
「わかった」
「じゃあお願いします。私は四時になったらすぐに出なきゃいけないので」
「ゼミ?」
「はい」
「頑張ってね」
そして佳が休憩室を出て行ったあとにのぞみは椅子に座って引き継ぎノートにもう一度目を落とした。

レース物で”絆”というワードがあり、作者は”なんとか園子”。これだけヒントがあればのぞみならすぐに本が分かりそうなものだが、やはり脳内検索でヒットするものはなかった。そもそもこの図書館に自動車レースを題材にした本は少ない。きっと両手で足りるぐらいの数しかないだろう。その中で”絆”というフレーズが入るもの、もしくは”園子”という作者が書いたものに絞ると候補はなくなってしまう。そもそも女性作家がレース物を書くこと自体が少ない。かろうじてこの図書館にある本で女性が書いたレース物の本が一冊だけあるが、その作者は”菅野弥緒”という人だ。おそらく違うだろう。
もしかしたら”絆”というフレーズが違うのかもしれない。作品の印象から”絆”という言葉が浮かんだだけで、その言葉自体は題名に無いということも有り得る。そう考えるとどうだろう。レース物でテーマが絆だとしたら男同士のライバルという名の友情だろうか。それとも苦難を共に乗り越えた父と子の話か。もしくは兄の後を引き継いだ弟の話。どれも男性作家だが、のぞみは一応候補には入れておくことにした。
今上がった本の中でこの図書館にあるのは父と子の人生を描いたノンフィクション作品のみだが、正確なタイトルが分かれば長岡さん自身でその本を買うこともできるかもしれない。

その後、夜の勤務時間になりバタバタと帰っていった佳を見送ったのぞみは、貸出カウンターにあるパソコンで改めて検索をかけてみることにした。すでに佳が検索したキーワードは除外し、”絆”というタイトル、”モータースポーツ”のジャンルで検索する。こちらも予想通り検索結果はゼロ件。タイトル検索を外してジャンルのみで検索してみる。モータースポーツ関連の本が何冊かヒットしたが、どれも絆を描いているような本ではない。『F1の歴史』『MotoGP選手名鑑2012』『ワールドラリー制覇への道のり』など。一冊だけ、世界的に有名なF1ドライバーの伝記で『ヴィクター・セバスチャンの真実』という本があった。若くして亡くなったレーサーで、いくつも出された伝記書の中でも最初に出版された本だったので当時は書店の店頭で平積みされるほど話題があった。これも絆と言えなくもないだろうか。のぞみは半信半疑のまま一応タイトルをメモしておいた。

「のぞみさん、見つかりました?」
「ひゃ!……あぁ、ナナちゃん、びっくりした」
のぞみが本を探すのを一旦やめて通常業務をこなしているところに、後ろからいきなり顔を出したのは白井菜々子。この図書館の職員の中で一番古株の白井さんの娘だ。現在大学一年生。でも彼女はバイトとしては登録されていない。白井さんが来れなくなった時の穴埋めで時々入ってくれるのだ。と言っても物覚えはいいし人当たりもいいから、菜々子の都合さえよければ正式にバイトとして雇いたいぐらいだ。
菜々子はのぞみの書いたメモを見ている。菜々子もこの件を知っているようで、探し物が見つかったのかどうか気になっていたのだろう。
「まだハッキリしたのは分からないわね。こうやってリストアップして本人に確認してもらうしかないかも」
そう言ってのぞみはメモを菜々子に渡した。あれからあまり候補は増えていない。
「『MotoGP』ってなんですか?」
「ああ、バイクのことよ。オートバイの世界レース。車で言うF1みたいなもの」
「へー。オートバイってモトって言うんですか。うちのお兄ちゃんもオートバイ乗ってましたよ。今は自転車ですけど」
「そうなの。バイク壊れちゃったの?」
「いえ。大学の友達に誘われて自転車サークルに入ったらハマっちゃったみたいで。バイクの方が早いのにって思いますけど」
ふふっとのぞみが笑う。いかにも菜々子らしい。
「でもバイクより自転車の方がお金は掛からないと思ったんですけど、自転車って結構高いんですね。お兄ちゃんのは初心者用とか言ってましたけどそれでも二十万ぐらいしたみたいです。自転車なのに」
菜々子がオーバーな手振りで話し、それに対してまたのぞみが笑う。
「そうね。でもロードレース用の自転車は軽さが重要だからその分いい素材を使って……いるのよ……」
と、のぞみは自分の言葉が終わらないうちにパソコンへと向き直った。
のぞみとしたことが失念していた。
佳が『モータースポーツ』と言ったのでそれにこだわりすぎてしまった。レースはそれだけではない。自転車だってレースだしボートも馬もある。マラソンだって言ってみればレースだ。
「ありがとう!ナナちゃん」
「?どうしたんですか、のぞみさん?」
しかしのぞみは菜々子の声には返事を返さずにキーボードを打った。

しっかりと仕事をしながら合間を見て本を検索していたのぞみは、「ふー」と息を吐いて天井を見上げた。
菜々子のヒントで検索範囲がグッと広がったと思ったが、やはりヒットするものはなかった。ただ半信半疑なメモが増えていくだけだ。最初はのぞみもクイズを解くかのような感覚で楽しんでいたが、クイズは惜しい答えを重ねて正解に近づいていくのが楽しいものだ。正解に近づいている感覚すらないのはやはり辛い。

のぞみは明日の午前中は仕事が休み。そして長岡さんは明日の午前中にまた来ると言っていた。つまりのぞみは今日中に本をある程度絞って明日の人に引き継がなければならないのだ。また明日の朝に来て説明してもいいし、『ありませんでした』のメモだけを引き継いでも何の問題もない。しかし長岡さんはのぞみを名指しで頼ってきたのだ。どうしても期待に応えたい。

閉館まであと三十分。そろそろ準備もしなければいけない。のぞみだけ居残ってもいいが、あまり残業して電気代を使うのも怒られる。
そんなことで悩んでいると、人もまばらになった館内に菜々子の声が響いた。
「あー、茉理さん!お久しぶりですー」
「やぁ、ピカピカの一年生。頑張ってるかい?」
「はい!」
どうやら茉理が来たようだ。今日の喫茶店のバイトは五時までと言っていたが、それから今までどこかで時間を潰していたんだろうか。

菜々子はやけに茉理を気に入っている。会った回数はそんなに多くないはずだが、茉理の姐御肌の部分に憧れているのだろうか。菜々子は時々お姉ちゃんが欲しいと言っていた。格好良くて面倒見のいい茉理は理想の姉なのだろう。
「これからのぞみとご飯に行くんだ。菜々子も来る?」
「いいんですか?行きます!」
「それでも、お酒はダメだぞ」
「分かってますよ」
「よし。じゃあお母さんに電話しときな」
「はい」
そう言って菜々子は休憩室に引っ込んでいった。本来は勤務中の私用電話は禁止だが、まぁ来館者もいないしいいだろう。
しかし問題は茉理だ。
「私、ご飯に行くなんて聞いてませんよ」
「いいじゃんよ」
職場じゃないからか、少し口調が砕けている。
「なんか予定あった?」
「いえ、別にないですけど……」
でものぞみは家に帰って長岡さんの本の検索を続けようかと考えていた。
この南図書館にないとなれば、あとは駅前の図書館に行ってもらうか本屋で買ってもらうしかない。そうしてもらうにしても、せめて題名だけはハッキリさせたい。
「どうしたの?何かあった?」
貸出カウンターに腰を預けるようにして寄りかかりながら茉理が聞いてきた。あまり真剣に聞くような雰囲気ではない。
「ちょっと探し物があって……」
それでもやはり茉理には正直に話してしまうのぞみだった。
「探し物?」
「そうなんですよー」
と答えたのは菜々子。
帰ってくるのが早い。きっと親に許可を得たというより一方的に報告して電話を切ったのだろう。後日自分が白井さんから怒られなければいいが、とのぞみは思っていた。
「レース物の本を探してる人がいるんですけど全然見つからなくて。でもレース物で絆がテーマでなんとか園子さんが書いてるって情報だけで探せというのが無理ありますよね」
茉理は、菜々子はあまり真面目に探してないんだろうなということに気づきながらのぞみの書いたメモを取り上げた。
「『ワールドラリー制覇への道のり』、『箱根の神-受け継がれた絆-』『ツール・ド・フランスを夢見て』……。あぁ、レースってこっちのことね」
メモを数箇所読んだ茉理がそんなことをポロっと言った。
「え?こっちって?」
のぞみは一瞬思考が止まった。こっちじゃなければどっちだ?
「え?あぁ、レースって言うからてっきり編み物のレースかと思ってた。こっちね」

レース。編み物のレース。刺繍のレース。
のぞみは慌てて検索をかける。
作者の項目に『園子』、ジャンルに『編み物・手芸』と入れる。
五件の該当結果が出た。
作者は全部、由川園子。レース編みの世界では有名は人らしい。
南図書館にあるのは『レースの編み方』の初級編、中級編、上級編。『レースを訪ねて』という由川園子がレースの歴史を追って海外に行った時の写真集。
そして最後の一つは小説家の越野安規子が書いた「二人を繋げる橋」という現代小説。これはレース編みを通じて友情を深めた二人の女性の話。この作品で由川園子がレース編みに関する監修と作品協力を行っている。本の表紙にもしっかりと名前が表記されている。

どうやらのぞみは根本的に大きな考え違いをしていたようだ。佳が最初にモータースポーツと言っていたし、訪ねてきたのが男性だったこともあっててっきりそっちだと思っていた。だが本当に本を探していたのはやはり奥さんの方だったのだ。
ご主人は『明日は妻が来るかも』と言っていた。それは明日はご主人が来られないからだと思っていたが、それは逆だった。奥さんが今日来ることができなかったから代わりにご主人が来たのだ。そこまでして早く見つけたかった理由は分からないが、それほど大事なものなのだろう。

「でもよく分かりましたね。私もてっきり車のレースのことかと思ってました」
菜々子はさっきからが茉理のことを関心しきっている。褒められ慣れていない茉理は、そろそろ居心地が悪そうだ。
のぞみだって少し落ち着いて考えれば気付けなかったことはないだろうが、それでもやっぱり最後まで分からなかったのだ。それをすんなりレース編みだと思う茉理は流石だと思った。
「茉理さんって、けっこう女子力高いですよね」
のぞみのその一言に、茉理はとうとう顔を赤くして怒った。





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