エンカウント ライブラリー

第一話 「のぞみと図書館」
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昨晩の熱帯夜が嘘のように涼しい風が頬を撫でる。
肩に掛かる髪の毛が風に揺られて、首元を初夏の心地よい空気が通り抜けた。
しかし空は快晴で、今日も一日暑くなることが予想される。
この時期は室内の仕事で本当によかったと思う。
体力を維持するために自転車で三十分かかる通勤を頑張って続けているが、それでも早朝だから行えるのであって真夏の暑い午後に自転車で出かける自信はない。

今は朝の八時二十分。
いつもならこの時間に家を出ているのだが、今日は八時に家を出た。
開店準備中でバックヤードが賑わっている地元のスーパーと、今は一つの波も立っていないスイミングスクールの横を通り抜ける。
途中にある人気のカフェでマイタンブラーにコーヒーを入れてもらい、朝ごはんのサンドイッチは自転車のカゴに鞄と並べて置いておく。
タンブラーの蓋をしっかり締めたことを確認してまた走り出した。
大きな交差点も今日はあまり待たされずに渡れた。
でも学校前の道に差しかかると、通学する学生たちとかち合って自転車ではスムーズに進めない。
いつもは登校時間後にこの道を通るから気にしていなかったが、前もって反対側の歩道に渡っておけばよかったと後悔する。
自転車を降り、学生たちをやり過ごしてから再び自転車をこぎ出す。
そして十分ほど走ったところで職場に着いた。

駐輪場に自転車を置いたあと、鞄とサンドイッチの袋を持って正面入口に回る。
少し古めかしい大きな扉の鍵を開け、そしてそのまま開けっ放しにできるように固定する。
中に入ると優しい風が埃を踊らせ、光がそれを輝かせている。
しかし澱んだ空気は昨夜の熱をまだ残しているかのように生温かった。

市立南図書館。
ここはこの街で一番古い図書館。
駅の方に行くと新しい図書館もあるが、ここは学校も幾つかあるせいかそれなりに人は集まる。空調も効いているため夏には待ち合わせ場所にぴったりのようで、学生たちからは南図書館を略して「ナント」という愛称で親しまれている。
それに近所のおじいちゃんやおばあちゃんの憩いの場ともなっている。
だから建物が古くても蔵書が古くても、こうやって続けられるのだ。

のぞみは扉を開けた入口のところに開館時間案内の看板を立て、そしてすぐに事務所に入って仕事着を着る。
といっても制服がある訳ではなく、今日着てきた白いシャツにジーパンのまま。帰りのことを考えて羽織ってきたピンクのカーディガンは脱いで紺のエプロンを着る。
そして胸元に『豊崎のぞみ』と書かれた社員証を付けた。
本来図書館に来て最初に行うのは夜間返却用ボックスの確認だが、今日はまず建物の奥に行った。
建物の手前半分は吹き抜けになっており、奥は二階建てになっている。
その一階から二階まで、窓を一通り開けて空気の入れ替えをする。
のぞみがいつもより早く出勤したのはこのためだ。
本というのは暑さに弱い。
だから熱が篭っているであろう図書館を早く開放して空気を入れ替えたかった。
これだけで大きな効果があるとも思わないが、のぞみは少しでも本を大事にしたいのだ。

その後、正面入口の横にあるボックスの確認を行った。昨日は休館日だったため、予想通りそこには大量の本が無造作に積み重なっていた。これだけの量は手では運べない。
のぞみは館内に戻り、図書館のカートを使って返却ボックスから本を運んだ。
スーパーのカートのカゴ部分が布で出来ているこのカートは、本来は足が痛くて本を持ち歩くのが大変だったり杖などで片手が塞がっていたりしている人のための物。
しかしのぞみはよくこのカートを活用している。
なぜならのぞみの小柄な体ではやはりたくさんの本を持ち運べないからだ。
二十代後半でありながら未だに大学生か、服装によっては高校生に間違われるのは、小柄な体型と童顔によるものだろう。
以前は髪の毛もかなり伸ばしていたが、より学生っぽく見られてしまうため思い切って肩より上まで短く切ったりもした。
少しでも大人っぽさを出したいと思ったのだ。
最近少し伸びてきているが。

のぞみは朝食を食べながら本の返却手続きを行うことにした。
本当は貸出返却カウンターを含め図書館スペースは全面飲食禁止だが、開館前なのでそこまでこだわらなくてもいいだろう。
のぞみはパソコンの電源を入れて立ち上がるまでにサンドイッチを数口食べる。
今でもモニターがブラウン管の古いパソコンを使っているため処理速度が遅い。
その間にサンドイッチを食べ、コーヒーを飲みながら返却された本を確認する。
「あ、これ読んだ人いたんだ」
のぞみが手に取ったのは『見上げれば、漆黒のハチミツ』という本だった。
「確かこれを読んだのは中学生ぐらいだったかしら」
のぞみはこの本で夏休みの読書感想文を書いて先生に褒められたのを思い出した。
タイトルに惹かれて読み始めたが、今まで読んだことのなかったSF冒険小説だったため最初はあまり進まなかった。
でも読み始めたので頑張って読んでいくと、中盤から大きく展開していき気づけば一気に読んでしまっていた。
夏休みに関係なく本を読んでいたのぞみだったが、読み終わったそのままの勢いでこの本で読書感想文を書くと決めて一晩で書いたのを覚えている。
この本は若者向けだし読書感想文にも向いている。
夏休みに読むには最適だが、きっと今返却されたということは読書感想文には使われないのだろう。
パソコンで返却処理を行うと、借主が中学生であることが分かった。
もったいないと思いながら、その本を返却処理済み専用のブックトラックに置く。

のぞみは子供の頃から本が好きだった。
そしてそののぞみの読書意欲を満たしてくれたのがこの市立南図書館だ。
のぞみはこの図書館の本をすべて読んだことがある。
宗教や育児の本などあまり興味を惹かれないものもあったが、活字を読み知識を増やすことが好きだったのぞみはそんな本も一通り読んでいた。
だからこの図書館にどんな本があるかをすべて把握している。
当然この図書館の蔵書にはのぞみが寄付した本もある。
図書館でありながら、自分の書棚という感覚さえある不思議な場所。
市立南図書館はのぞみにとって子供の頃からの遊び場であり安らぎの場でもあるのだ。

その後も返却処理をしながらも気になる本を広げながらやっていると、同じシフトの人が出勤してきた。
パソコンの時計を見ると、もう九時二十分だった。
本来ならもっと早く済ませられるぐらいの量だったが、いろんな本に寄り道していたせいでかなり時間がかかってしまった。
度々上司に注意されるのぞみの悪い癖だ。

「おはよう。今日も早いのね」
「あ、白井さん。おはようございます」
出勤してきたのは少し白髪まじりの女性。南図書館では一番の古株だ。
のぞみが出勤時間より早く来ていることは職場のすべての人が知っているので、白井も当然驚かない。
早く来ても時給は発生しない。
契約が九時半からだからだ。
それなのに早く来て仕事をしているのぞみの噂はすぐに広がった。
のぞみ自身はこの図書館が大好きなので、お金にならないことは重要ではない。
重要なのはいかに長くここで働くか、ということだけだった。

白井は荷物をロッカーに置いてエプロンを取ると、そのまますぐに受付カウンターに出て来た。
「のぞみちゃん、代わるわよ。朝ご飯ぐらいゆっくり食べなさい」
「え、でも」
「いいのよ。本来二人でやる業務なのにここまでやってくれたんだから」
「すみません」
そういってのぞみは席を白井に譲り、サンドイッチとコーヒーを持って事務所に行った。
確かにあのままのぞみがやっていたら開館までに終わらなかったかもしれない。

のぞみがコーヒーを飲みながらテレビを点けると、ちょうど直木賞の話題が流れていた。
今年の受賞作はすでに読んでいるが、あれが直木賞に選ばれたのかと少し以外に思ったことを思い出した。
次回の図書館フェアはこの作家の作品を押し出そうか、それとも直木賞受賞作品を並べようか迷っていた。のぞみはあまりこの人の作品は好きではないから、きっと直木賞受賞作品に方になると思う。
でももうすぐ夏休みだから読書感想文向きの本をテーマにしても面白いかもしれない。
もちろんさっきの『見上げれば、漆黒のハチミツ』も並べて。
別に貸出が増えたからといって収益がある訳でもないからここまでする図書館もあまりないが、ここではのぞみが中心になって図書館フェアを度々開催している。
皆ものぞみが大半のことをやってくれるので反対もせず協力している。
のぞみとしてはできるだけ多くの人に本に興味を持って読んでもらいたいのだ。

のぞみが食事を終えて事務所を出ると、ちょうど返却処理が終わった本をブックトラックに乗せて運んでいるところだった。
のぞみはすぐに後を追い、二階に戻す分だけを受け取った。
背表紙に付いているナンバリングを見ればどの区画の本かすぐに分かる。それを持って階段を昇った。
白井は少し足が悪いため、重いものを持って階段を上がるのは辛いのだ。
一時期建物を改装してエレベーターを着けようかという話もあった。
年配者の利用も多いので、どうしても必要になる。
しかしその申請は却下された。
それもそのはず。
その頃、市の方ではこの図書館を閉鎖するという流れになっていたからだ。
古い図書館でこれから様々なところで修繕費がかかる。
それに駅前には新しい図書館もある。
市としてはこの図書館を残しておく理由はないのだ。
だがよくよく話を聞いてみると、この話は市役所の図書館課課長が変わってから持ち上がったようで、その人はこの街の出身ではないらしい。
だからこの街における市立南図書館の重要性を知らないのだ。
未だに学生の利用は多いし高齢者にとっても安らげる場所。
それを簡単に無くしてしまうことはできない。

もっともここまで市立南図書館を重要視しているのはのぞみぐらいだろう。
のぞみにとってここは思い出がたくさんある場所なのだ。
それは本だけに限らない。
本を通してたくさんの人に出会ったし、この図書館で色んな青春を過ごした。
多分に埋もれずこの図書館で受験勉強をしたし、友達の待ち合わせに使ったりもした。
恋の思い出だってある。
だからのぞみはどうしてもこの図書館を無くしたくなかった。

幸いだったのは当時の同僚がのぞみの意気込みに付いてきてくれて共に図書館課の人を説得してくれたこと。
図書館課の人も変わって早々市民から苦情が出るのも嫌だったらしく、これからも利用者が減らなければという条件で存続を許してくれた。
それから始めたのが南図書館オリジナルの図書館フェアだ。
これで様々な年齢の集客を狙う。
そして年配者も引き続き好きな本を選べるように、年配者向けの本を一階に移すことまでした。

それ以後、安定した利用者の数、時には新しい図書館に近づくほどの貸出数を記録して南図書館の解体は免れた。
しかしやはり図書館課としては南図書館に必要以上の経費は回さない考えらしい。
だから正面入口だって古めかしい大きな扉のままだし、パソコンも買い換えられていないのだ。
そろそろ自分用の新しいパソコンを買って、今まで家で使っていたパソコンをこのブラウン管と交換しようかとも思っている。
本といい設備といい、今までのぞみがこの図書館にどれだけ寄付してきたか分からない。
『これでいいのか』と思うこともあるが、毎日顔を出してくれるおばあちゃんがいつもお礼を言って「この図書館があるとみんなに会えるから嬉しい」と感謝してくれることで報われる。

のぞみは二階に本を戻して、開けていた窓を閉めて一階に戻った。
白井は今日の朝刊をスライド式クリップホルダーにセットして新聞掛けに掛けていた。
昔は主要五紙と地元の新聞、そしてスポーツ新聞を揃えていたが、今は全国紙と地元紙スポーツ紙をそれぞれ一紙ずつとなっている。
この辺りにも南図書館に対する市役所の意向が示されているように感じる。
でも昼に出勤してくる館長がいつも自分の読み終わったスポーツ新聞を渡してくれるから、午後には一紙増えるのだが。

その間にのぞみは一階の窓も閉めて空調のスイッチを入れる。
扱っている物が物だけに、室内温度には注意しなければならない。
しかし年配者の中には冷房の空気が苦手という人もいるので、自由に利用できるブランケットも準備しておく。
最後にテーブルやカウンターの上の水拭きをして、各所に置いてある花に少し水をやる。

二階の壁にある大きな掛け時計が低い音を響かせ、十時の開館時間を伝える。
それをゆっくり聞き終わったあと、のぞみは入口の看板を仕舞いに行った。
しかしそこにはすでに待っている人がいる。
例のおばあちゃんだ。

「こんにちは、おばあちゃん。いらっしゃい」



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