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★ ☆ ★




「い、ない…ですね…」

一旦休憩しようと言われてしぶしぶ腰を下ろしたベンチで、もう何度目かわからない台詞をぽつりと呟いた。
すぐ隣に座る昴さんからその言葉に対して返事はなくて、俺の声は周りのお客さんの声に掻き消されるように消えていく。
あれからどんなに探しても安室さんを見つけることができなかった。
この限られた空間の中でどうして会うことができないのか、彼に何かあったらと思うと居ても立っても居られない。
俺が休憩なんかしている間も、彼は一人なのに。
少し離れたところにある大きな水槽の中では魚たちが相変わらずの様子でのびのびと泳いでいる。

「もし、なにか、あったら…」
「彼なら大丈夫ですよ。顔色が悪いですよ…何か飲みますか?」
「い、らない…です」

不安で呟いた俺の言葉を遮るように昴さんがのんびりと言葉を放つ。
どうしてそんなに冷静でいられるのだろう。
俺はこんなに不安で、いまにも押し潰されてしまいそうなのに。
安室さんにもう会えなかったらどうしよう。彼に何かあったら俺のせいだ。
やっぱり、水族館に行きたいなんて我儘、言わなければよかった。
酷く冷たい自分の指同士を絡めながら、この薄暗い空間で一人ぼっちになってしまったような気持ちになった。

「…一つ聞いてもいいですか?」
「へ…ぁ?」

突然話題を変えられたせいか、喉から頓狂な声が漏れた。
慌てて顔を上げてみると顎に指を当てながら何か考え込む彼の姿が目に入った。
相変わらず、目は合わせられない。

「どうして記憶がなくなったのか、心当たりは?…なにか思い出したことはありますか?」
「ぁ…わ、かんな…い…です」

嘘をついた。
彼の質問で思い出すのは、記憶にはないはずの景色。
知らない男の人、腕を引かれる自分。
けれど、どうしてその経緯に至ったのか全く思い出せないし、それに本当にそれが実際に現実で起こったことで、本当に自分が体験したことなのかどうかも分からない。
ぼんやりと遠くを眺めた後、思わせぶりなことを喋ってはいけないと思って、下を向いて口を噤む。
誰かに強く掴まれた感触から逃れるように自分の腕を擦っていると、小さく反応した彼が眉を動かした。

「あ…え、と…お、れも…質問、…いいですか…?」
「…なんですか?」
「前の、俺も…やっぱり、…安室さんのこと…、好き…でしたか…?」

これ以上記憶について聞かれてしまわないように、今度はこちらから話し始めた。
誰にも聞けずにずっと気になっていた、記憶を失う前の自分のこと。
ぽつりぽつりと話す俺の言葉を聞いた彼が、驚いたと言いたげに口から息を漏らした。

「どうしてそう思うんです?」
「だって…髪の毛、とか…」

全く覚えていないけれど、以前の自分も、安室さんに恋心を抱いていたはずだ。
これは質問ではなくて、確信。
鏡を見てあんなに驚いたのはいつぶりだっただろうか。
ボサボサだったはずの黒髪が突然茶髪になっていたのだから、記憶がない間に何かあったと考えるのが自然だった。
そうでなければ俺みたいな人間が髪の毛を染めたり切ったりする理由が思い浮かばないのだから。
今だって周りの人の目が怖くて仕方がないのに。
開けた視界が未だに慣れずに居心地が悪くて、すっかり短くなってしまった前髪を指で撫でた。

「でも…嬉しい、んです」
「どうして…?記憶がなくなったのに?」
「俺…何回でも好きになれるんだなって…」

記憶をなくしたとしても自分は安室さんを好きになることができる。
輝く宝石のような彼に、何度でも恋をする。
自然に漏れる笑みを隠さずに昴さんを見上げた。
細めた視界の先で驚いた顔をする彼の色白の肌が、遠くの水槽と同じ青色に染まっている。
その様子をしばらく眺めた後に、ゆっくりと視線を下ろした。

「でも、振り向いては…もらえない、んですけど…」
「君は…」

安室さんは確かに、俺のことを友人だと言った。
それは自分の片想いにすぎないという確かな証拠で。
肩を落として落ち込む俺に、昴さんが何かを言おうとしたその瞬間。
ふ、と。
初めから薄暗かった水族館の照明がすべて落ちた。

「っ…!?」

綺麗にライトアップされていた水槽すらも真っ黒な闇に塗りつぶされて、ほんの少しだけぼんやりと見える深海のような濃紺が不気味に佇んでいる。
どうやら演出というわけではないようで、館内が一瞬で騒がしくなった。
他のお客さん達のざわめく声、小さな子供の泣き声、様々な雑音が大きく聞こえてきて、驚いた俺は隣にいる昴さんの存在を確かめるために服を強く握った。

「え…ぁ…?す、ばるさ…なに、これ?」
「しっ…晶太くん、静かに」
「…え?」

一体何が起きているのだろう。停電だろうか?
怯えながら昴さんに声を掛けていると、こちらに顔を近づけた彼に耳元で囁かれる。
緊張したようなその声色に、俺はすぐに体を硬直させた。
肩を抱くその大きな手のぬくもりだけが怖いくらいに体に伝わってくる。
水族館のスタッフの人だろうか。お客さんを落ち着かせるために出した大きなその声が展示室に響く。
けれど隣に座る彼から発せられる張り詰めた空気にあてられているのか、耳が塞がってしまったみたいに何も聞こえない。
それだけじゃない。なんだか背中が寒くて、体が震える。

「ぁ…な、んか…さむ…」
「晶太…っ!」
「ひっ…」

すぐ隣で聞こえた俺を呼ぶ大きな声に重なるように、何かが破裂した時みたいな乾いた大きな音が聞こえた。
パンッと短く響いたその音は頭の中で弾けるみたいに大きくなっていく。
腕を引かれたことに気が付く前に乱暴に抱き寄せられて、昴さんのその大きな手が後頭部に回された。
耳元で聞こえた、恨めし気な舌打ち。

「っぁ…?」
「…おい、大丈夫か」

今の音、知ってる。
自分のものじゃないみたいに大袈裟に反応した体が彼の腕の中で大きく跳ねた。
寒気がゆっくりと背中を駆け上がっていく。
ひゅっ、と狭くなった喉を空気が無理矢理通る音が鳴った。
次の瞬間、殴られたみたいな頭痛に襲われて、この間見たのと同じ知らない記憶が再び脳に流れ込んでくる。
知らない男の人と、抵抗する自分。
そして今回新しく見たのは、血を流して倒れる誰かの姿。

「ぁっ…嫌っ…触、な…で…」

途端、全身の血が一気に引いていって、喉が塞がってしまったみたいに呼吸ができなくなった。
掴まれたままの手首を必死で動かしてもがく。
くるしい。息ができない。まるで水の中にでもいるみたいだ。

「…聞こえるか?」
「…っ、っ…ゃ…」
「落ち着いて息をしろ。…できるか?」

喉から乾いた音がする。
もう寒さなんか感じられないのに、勝手に全身が小刻みに震える。
昴さんに支えてもらわないと座っていることすら難しくて、何を言われているのか良く聞こえない。
重たい頭を彼の胸に押し付けながら、必死になって首を横に振った。
自分がどうなってしまっているのか分からない。

「…チッ」

ずっと何かを気にかけていた彼が突然動き出したかと思ったら、力の抜けた体が簡単に抱き上げられた。
それから弾かれたみたいに走り出した彼がどこか壁際に移動して、壁を背にしてその場にしゃがみ込んだ。
その時、ぼやける視界で輝くようなエメラルドグリーンを見た気がする。

「晶太、もう大丈夫だ。呼吸しろ、ゆっくりでいい」
「ぁっ…は、ふ…」

なんとか保たれた意識の中、背中を擦られながら必死に呼吸を繰り返した。
苦しくて、怖くて、安室さんと過ごせると浮かれて来たはずの水族館でどうしてこんなことになっているのか、全く理解できない。
彼は何処に行ってしまったのだろう。
やがて頭が割れるような痛みが治まってきた頃、やっと電気が復旧したのか次々と照明が付けられていった。
涙で滲む視界が急に明るくなったことに驚いて、視界を埋める水槽の青色を感じながら目を瞑る。
色々なところから安堵の溜息が聞こえてくるけれど、俺はといえばさっきまで必死にもがいていたのが嘘みたいに、すっかり力が抜けてしまって体がうまく動かせない。
意識がぼんやりとする。

「昴…さん?…な…にが、あったの…?」

疑問を呟きながら周りに視線を滑らせる。
昴さんの制止の声が聞こえるのと同時に、さっきまで自分達がいた近くに誰かが倒れているのが見えた。
床に広がる、真っ赤な、血。
その色を最後に彼の大きな手に視界を塞がれて、再び目の前が真っ黒に塗りつぶされる。
館内に誰のものだか分からない悲鳴が響き渡った。


動き出した時計の針 

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