病は気からって言うから、
私は毎日外へ出る。
「病院」だと教えられたこの建物は周囲を林に囲まれて、手入れの行き届いた高い木々がお互い譲り合って並んでいる。私はそこをあちらこちらから感じる鳥や獣の気配を楽しみながら、当てもなく、決まったルートも、道すらない場所をただ歩く。
「今日はまた随分と遠くまで来たな」
一人きりだった空間に突然人が現れることにはもう慣れてしまった。その低い声に振り返れば、そこにいるのはいつもの彼。無表情とは違う心の読めない様子で私を真っ直ぐに捉えていた。
「こんにちは、ミスター」
彼の表情がほんの少し崩れた。そこに流れた喜びとは真反対の空気に、ぎゅっと心が締め付けられる。
いつものことだ。
いつも彼は私を迎えに来てくれる。たとえ目印を残さず歩こうと、私自身が帰り道を見失おうと、必ず見つけ出してくれる。迷惑を掛けてはいけないと分かりつつ、娯楽もないこの場所でのかくれんぼは私の心を晴れやかにしてくれる。
「帰るぞ、リリー」
「はい」
彼は私の名を呼んで、私は彼の名を呼べない。尋ねてみたのは一度だけ。その時の彼の苦しそうな表情を今も忘れられずにいる。
きっと私は知っているのだ。彼の名も、手の温度も、柔らかな笑みも。ただ何故か忘れてしまっているだけで。
「手を繋いでも良いですか?」
「……君が構わないのなら」
ひどく驚いた面持ちとともに、手が差し出された。そのぎこちなさが何だか可愛く思えて、緩む頬を隠して手を繋ぐ。
記憶を失う前の私はこんな彼のことも知っているのだろうか。くすぐったくなるこの気持ちも。
「しばらくは遠くへ出歩くのを止めておけ」
「どうしてですか?」
「少しの間、留守にする」
「それはどのくらい?」
「……なるべく早く戻る」
ぎゅっと彼の握る力が強まって、私も同じように心を込める。しばらく会えないのなら、今日は遠くへ向かって正解だった。
「君がもし、杖を使いたくなったなら、いつもの棚に保管してある」
「杖なんて何に使うんですか?」
「……この枝と同じだ」
そう言って、彼はそばの樫から小枝を奪い、何もせずに地面へ落とした。私にとっては意味のないもの。その哀れな小枝が自分と重なり、立ち止まらないギリギリまで目で追った。
杖を使いたくなるのも、「いつもの棚」が分かるのも、私じゃない私。彼が待っているのも、会いに来ているのも、名前を呼んでほしいのも、私じゃない私。
その私は、杖を手に飛び出して行くのだろうか。待つだけなんてできずに、彼の元へ。
けれど私は、
あなたを信じて待ち続けます。
Special Thanks
月猫様
(2019.9.26)