「前世で見た夢を今生で叶えよう」
見知らぬ男がそう言った。
一体どんな夢を見たというのだろう。前世だとか、今生だとか。あるのは今。何のしがらみも持たず私がこの足で歩いてきた今だけだというのに。
「あなたとは前世で会った覚えがないの。他を当たって」
ナンパか何かの勧誘か分からない誘いをあしらって、足早に帰路を辿る。生温い風を素肌に受け、腕を擦った。
まだ人通りの多い夜のロンドンの大通りではマグルの車も行き交っていて、煌々と辺りを照らす。一定の間隔を違うことなく並べられた街灯はそのすべてが虫を引き寄せていた。
バチン、とどこかで乾いた音がする。そばの街灯が点滅を繰り返し、何人かのマグルが通りすがりに見上げていた。その音の出所が別にあると分かるのは魔法使いだけ。
私は視界を横切った黒い影を目で追った。コソコソと怪しい動きはマグルの多い場所で魔法族がやりがちだが、何年も魔法警察として悪人を取り締まってきた私には違いが分かる。
仕事を終えたばかりだというのに首を突っ込もうとしているなんてため息が出る。しかし見過ごして事件が起きれば、出るのは私のため息どころではないのだ。近頃は死喰い人の残党も減り、イギリスに平和が戻りつつあるが、犯罪はゼロになってくれない。
少しずつマグルたちから距離を取り、杖を出した。そして影の消えた路地へと踏み込む。
そこには私を待ち伏せていたらしい男がいた。
彼はダラリと下げていた空の両手を頭へやって、その顔を隠していたフードを脱ぐ。街の灯りを受けて現れたのは、黒く長い髪、フードがなくなって尚顔を隠す前髪、高い鉤鼻。
それは新聞で見たことのある顔だった。
「……セブルス・スネイプ?」
「如何にも」
彼は鬱陶しげに前髪をかき上げた。覗く両眼が真っ直ぐこちらへ向けられる。その瞳が何故か心細く揺れているように思えた。
「あなたは亡くなったと新聞で読んだわ」
「新聞は真実だけを報じる、と信じている人間がまだいたとはな」
「仮にあなたが本物だとして、私に何の用?」
「私を、信じてほしい」
「どういう意味?」
彼が手を懐へと差し入れた。抜き出されたのは闇よりも黒い杖。ゆっくりとした動きすべてを見逃すことのないように、私は目を見開き、唾を呑んだ。
『信じてほしい』
ドクドクと私の不安が脈を打つ。この路地だけが大通りから切り離され別の空間に存在しているようだった。
信じるべきか、否か。私の心は揺れ動いていた。
仕事では一瞬の迷いが命取り。こんなにも長く相手と見つめ合ったままいるなんてあり得ない。構えた杖を使わずにいるなんてあり得ない。それでも、不意だってできたはずの彼が無防備な両手で私を迎え、『信じてほしい』だなんて。
今日は人生最大の失敗の日として私の記憶に刻まれるのかもしれない。そう思いながら、彼の杖先が描く模様を、ただ眺めていた。
「――っ!」
一瞬で半生を頭に直接流し込まれる。目まぐるしく浮かんでは消える映像。記憶。
それは私の人生だった。
そこにはいつも、愛しい黒い影がいてくれた。
「セブルス……」
長らく呼べずにいたその名を、口が、心が、勝手に求めた。
「リリー……」
彼に呼ばれ、雷に打たれたように身体を痺れが駆け抜ける。
「私、あなたのこと……!」
「私が君から記憶を消した。そうする他に君を守る自信がなかった。そして今も、私は私の都合で君へ記憶を返した。リリー――」
パンッ!と乾いた音が路地に響く。
私はジンと痛む左手を握った。
前世も何も他の人生なんて存在しないと思っていたのに。私がこの足で歩いてきたと思っていた今が、こうも容易く覆されることになるとは。
「守ってほしいなんて言ってない」
「あぁ」
「セブルスなしの幸せなんて必要なかった」
「あぁ。すべて私が勝手にしたこと」
私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼の胸へと飛び込んだ。よみがえった記憶よりも少し痩せた身体を目一杯抱き寄せる。背中に彼の優しい手の温もりを感じた。
「セブルス……」
そう呼べることが嬉しくて、その呼ぶ相手が目の前にいることが奇跡で。
今度こそハッピーエンド。
Special Thanks
月猫様
(2019.7.25)