前年度の終わりに、一学年下の可愛い後輩が大失恋をした。それも最悪な状況で。直接見物できなかったことが悔やまれる。でもそれで正解だったのかもしれない。私の頬から感情が滲み出てしまっていただろうから。
「純血」
湿った石壁に合言葉を告げて、友人と連れ立ち談話室へと進む。
「あ、またあそこで丸まってる」
「え?――あぁ、スネイプ。ようやく穢れた血と手を切ったかと思えば、今度は何してるわけ?」
私にとっては可愛い後輩。しかし友人には不評だった。彼女は無価値なものを見る虐げた視線を送り、すぐに逸らす。
私の意識の先でセブルスは隅にある壁向きの一人用机に齧り付いていた。背を丸め見慣れた鉤鼻を羊皮紙へ擦り付ける。世話しなく動く羽根ペンが時折彼の前髪を持ち上げていた。
「何がそんなに良いんだか」
「ルシウスの人を見る目は馬鹿にできないよ。それにセブルスをよろしくって言われたし」
「それだけが理由?」
「まさか。そんなに義理堅い人間じゃないよ、私は」
視界の端に揺れ動く黒髪を留めつつ、紅茶を淹れる。二杯目に手を付けたところで可愛い後輩が立ち上がった。時計を確認して再び彼を見上げれば、バチリと視線がかち合う。
この目。私は彼の深淵に惹き込まれたのだ。
「また行くの?」
小競り合いを始めた下級生へ杖を振って黙らせ、友人がリリーに問いかけた。1メートルほどの距離を通り過ぎる彼を感じながら、リリーは紅茶を一気に煽る。
「もちろん。ようやく私の順番が回ってきたんだから。邪魔なグリフィンドールはもう去った」
「飽きないわけ?」
「飽きるなんてそんなの無理。仮に私の手に落とし損ねても、闇には引きずり込んでみせるよ」
「勝手に染まってくれるんじゃない?」
「かもね。でも念には念を。彼の魔法薬の才能はこの先役に立つって父様も言ってるから」
リリーは立ち上がり服装を正す。休日の今日はいつものローブを脱ぎ捨て鮮やかさを纏っていた。
「はいはい、可愛い可愛い」
面倒臭げに手を振る友人へお礼のウインクをして、リリーはセブルスの後を追う。とは言え既に彼の姿は見当たらない。だが彼女には彼の軌跡が手に取るように分かった。
地下に並ぶ空き教室の一つ。そこにスネイプはいた。この地下の主はお気に入りに甘い。空き教室を使わせてほしいとスネイプが頼めば、二つ返事で了承した。その時はもう一人のお気に入りの生徒、リリー・エバンズもいたから尚更だ。
しかし今、彼はここを一人で使用している。もう二度と彼女が訪ねてくることはない。そう分かりながらも、燻る希望を捨てきれずに。
コンコン、とノックが響く。
何度も期待して、何度も裏切られた音。スネイプは神経質に刻んだ萎び無花果の脇へナイフを置き、扉を開けた。そこにはやはり、赤はいない。
「はぁい、セブルス」
「また来たのか。七年生は随分と暇なんだな」
スネイプがフンと鼻で嗤った。リリーを追い返そうと扉へかけたままの手に力を入れるが、彼女の手がそれを阻む。男女の筋力差を易々と乗り越える彼女が何らかの魔法を使っていることは明らかだった。
「セブルスといると魔法薬の成績が上がるからね」
「六年生から教わって、恥ずかしいと思わないのか?」
「馬鹿げたプライドで試験に失敗する方が恥ずかしい」
「NEWTレベルよりもっと複雑な実験をしているくせに」と付け足して、リリーがクスクスと笑った。そしてぎゅっと寄せられたスネイプの眉間を中指で弾く。
「い゛っ」
「癖になるよ」
「手遅れだ」
然程使われない僕の喉から、不貞腐れた気持ち悪い子供の声が出た。眉間は鏡を見ずとも分かる。反射的に覆った指でその凹みに触れた。
これ以上は時間の無駄だとため息をつき、彼女を置いて大鍋へと戻る。
リリーが訪ねてくる度、毎回何らかのやり取りがあった。追い返そうとして、成功した例はない。単純に扉を閉じられなくされるせいもあるが、理由は一つじゃない。
「何を作る気か知らないけど、この欠片、少し大きい」
テーブルを覗き込む彼女が指先を刻まれた萎び無花果の山に突っ込んだ。ちょいちょいと曲げて掻き分けると、取り出されたのは確かに他より大きな欠片。しかしよくよく見なければ見落としてしまうほどのもの。
「……どうも」
悔しいことに、リリーの入れる横槍は実験の成功率を上げていた。僕なんていなくても、魔法薬の成績は首席レベルだろう。繊細な調合に欠かせないものを彼女は持ち合わせている。観察眼や忍耐、そして僕に不足しがちな直感力。リリーが補ってくれていた、才能。
不意にリリーが手を下げた。
「あっ!」
スネイプは思わず声をあげた。
摘まんでいた萎び無花果が刻まれた仲間の元へと放り込まれていた。彼女はぐしゃぐしゃと刻まれた山をかき混ぜる。文字通り、あっという間に見失ってしまった。
「君は一体何がしたいんだ?」
「そっちこそ、何を考えてた?」
「……別に、何も」
スネイプが萎び無花果を掻き分け僅かに大きな欠片を見つけ出す間、リリーは彼の向かいに丸椅子を呼び寄せた。そこが彼女の定位置。スネイプの細かな一喜一憂まで観察できる。逆さの世界は些細なミスにも敏感に反応できた。
「そこ、変えたら面白そう」
「どこを?」
「コウモリの脾臓。理論としてはこれがベストだけど、ここを――」
リリーが真っ黒に書き込まれたスネイプの参考書を指差した。彼はその指先に鉤鼻を押し付けんばかりに覗き込む。粗方の考えを述べ終わると、リリーの中でムクリと悪戯心が起き上がった。
「確かに、一理あるかもしれ――っな!」
ニヤリと成功者の笑みを浮かべ、リリーが先程までスネイプの鉤鼻があった空間を擽った。
「萎び無花果がここにもぶら下がってたから、つい」
仰け反りもうそこには何もないというのにスネイプはまたムズムズとした気持ち悪さに襲われる。ローブの袖口で何度も鼻を擦った。摩擦で赤く染まった鼻に「色まで似てきた」と彼女が笑い声をあげる。
「邪魔をしに来たなら出ていってくれ」
「邪魔だった?一理あるって言ったくせに」
「僕に触ったことへ対してだ!」
「だって熱心に聞いてくれる姿が可愛くって」
悪びれることなくリリーはまたカラカラと笑った。
からかわれ『可愛い』などと嘯かれたところで腹立たしさしかないのに。馴染んだ地下の色へ僅かばかり彼女が混じったような気がした。
ポトリ、ポトリ、グツグツ、と調合は進む。相変わらずリリーはスネイプの向かいに居座り横槍を入れていた。穴を空ける気ではと思うほどの視線に耐えながら、彼は大鍋を掻き回し続ける。
そして柄杓が大鍋を右へ左へ回ること数十回。とうとう待ち望んだ変化が現れた。
「やった!」
スネイプが喜びに震えながら仕上げの杖を振る。玉虫色のトロリとした液体からは螺旋状に緑の湯気が上がっていた。それを広口瓶へ注ぎながら、興奮冷めやらぬまま彼が口を開く。
「君が正しかった!原因はコウモリの脾臓!やっぱり君の直感は素晴らしいよ、リリ……」
「どうもありがとう」
呼んだ別の名はリリーにも届いていた。スネイプは言い切ることなく途切れさせたが、それでも数か月前まではここにいたであろう人物の名であることくらい、容易に分かってしまう。
「あ……リリー……」
羽虫を追うように視線をさ迷わせながら、まごまごとスネイプが歯切れの悪さを見せる。
「髪を赤毛に変えようか?赤の入ったローブを着て?」
「止めろ!君は、リリーじゃない……」
「彼女はもう来ないよ」
「分かってる!言われなくても!そんなこと!」
乱暴に柄杓を大鍋へ投げ入れ、スネイプは逃げるように石の水盤へと闊歩する。そして大鍋へ水を満たしながら言い訳を重ねるように呟いた。
「親友、だった……僕が口を滑らせるまでは」
「セブルスは謝ってた。何度も。でもそれを受け入れるかは、彼女が決めることだから」
ザバァ、と大鍋の水が流される。スネイプが言葉を返したか沈黙を決め込んだのか、リリーには分からなかった。ただ彼へと歩き、洗い終えた柄杓を受け取る。
「セブルスがもっと強くて名の知れた魔法使いになれば、彼女の気持ちも揺らぐかもしれない」
「もっと、強く……」
「私、闇の魔術に対する防衛術が一番得意だって言ったっけ?防衛しない側も得意だ、って。セブルス、興味あるよね。もっと教えてあげようか?」
「…………」
杖を振り柄杓を棚へ戻すと、リリーはそっとスネイプの肩に触れた。「Yes」も「No」も返さない彼。しかしその手は止まり聞き入っていた。リリーの口角が自然と上がる。
「強くしてあげる。マルシベールやエイブリーが子供のお遊びに思えるくらいに」
やがて私は卒業し、1年後にはセブルスも卒業した。
私の後を追って――ではないだろうが、彼もまた、死喰い人として闇の帝王に同調した。マグルの父親と上手くいっていなかったセブルスは、元々こちら側に寄っていた。闇の魔術への関心も深い。当然の流れだった。
毎日誰かを苦しめ、捉え、操る。ベラトリックスのようにそれが楽しくて仕方がないわけじゃない。それはセブルスも同じだと思う。しかし弱者を憐れむ良心はなかった。
そんなある日のこと。私はある一報を胸にスピナーズ・エンドを訪れた。セブルスの家の扉を乱暴に殴り、いるはずの男を呼ぶ。
「セブルスっ!」
何度目かで、玄関扉が開いた。
「騒々しい。一体何があった?」
リリーは押し入るように中へと進み、扉を閉める。
「来客は?」
「いや、一人だが……」
リリーのあまりの剣幕に、スネイプにもじわりと焦りが浮かぶ。僅かに心拍も上がり、杖を取り出す彼女に釣られ、懐へと手を入れた。
「コロポータス(扉よくっつけ)!」
奇妙な音と共に扉が一枚の壁と化した。
「何を――」
「いつもの耳塞ぎ、あれやって!――いいから!」
スネイプは促されるまま部屋全体へ杖を振った。その間リリーはカーテンを神経質に閉め回る。呪文をかけ終えたスネイプの前へ立つと、震える左手で杖を握る彼の手を覆った。そして右手を闇の印が刻まれた部分へ添える。
「リリー、いいかげんに――」
「リリー・ポッターが選ばれた」
「な、ん――」
「リリー・ポッターの息子が!選ばれた!闇の帝王を討つ予言の子供として!あのお方は家族を皆殺しになさる!」
年々読めなくなる男の表情が、微かに揺らいだ気がした。
「そう、か……とうとう決断なされたのか……ようやく、我輩の得た情報が真に役立てられ――」
「セブルス!リリーは……リリーはあなたにとって――」
「黙れ!……それ以上言う必要はない」
スネイプは半歩身を引いてリリーから逃れた。彼女がそれを追うことはなく、真っ直ぐに彼を見つめる。犬歯を下唇に強く押し付けながら、今までにない決意を満たす彼女の瞳に黒衣が映り込む。
「直接聞かされる前に、伝えていた方が良いかと思って。闇の帝王に慈悲を乞うつもりなら、私も協力する。いつでも呼んで」
リリーが玄関扉のあるべき場所へ反対呪文を唱えると、古びた木製の扉が元通りに姿を現した。
「何故君はそこまで……」
「全く、馬鹿な男。答えを貰えるのは学校の勉強だけだよ」
眉尻を下げリリーが振り向くと、スネイプの底無しの瞳が彼女を捕らえた。すべてを吸い取るような闇。容易く惹き込まれる。リリーは心を晒け出しながらも、口先だけは偽言を作った。
「親友、だから。今のあなたがそう呼べるのは、私くらいなものでしょう?」
リリーはにこりと笑みを作り、すぐにドアノブを握り締める。
「リリー」
「何?」
呼ばれても、振り返りはしなかった。
「恩に着る」
「気の早い感謝はいらないよ。それに、命までは賭けてあげないから」
「そんなもの、必要ない」
スネイプは垂れ下がる前髪をぐしゃりと掴み、露になった片頬で彼女の背へ笑みを作った。見せ掛けの余裕は痛々しく、その声は彼の心の在処を鮮明にリリーへ突き付けていた。
「策はある。どう転ぶかは分からないが、君の手を煩わせることはない」
「そう……健闘を祈るよ」
甲高い軋みをあげた扉がカチャリと閉まる。
ここへ駆け込んだときには曇っていたはずの空が青く、太陽が顔を覗かせていた。すべてを照らすその温もりを浴び、リリーはフードを目深に被る。
あぁ、ついてない
こんな日は雨がほしいのに
その後