「待って、リリー!」
ふわりと舞う赤毛がそばを駆け、それを追って自寮の男子生徒が走って来る。赤と緑の目につく組み合わせは一学年下の二人組。彼らの存在は知っていた。特にスリザリンの方。ルシウスが目をかけている子だ。
しかし大して興味はなかった。穢れた血とつるむような恥知らずとは関わる気などなかった。
この日までは。
私は女子生徒を見る彼のキラキラとした瞳に惹き込まれてしまった。目は時として口よりも雄弁に語る。彼が恋をしているのは明らかだった。人の物が欲しくなる厄介な質の友人はいるが、私はそうじゃない。けれど重い黒髪を揺らし追い付こうと必死な彼から擦れ違い様に羽根ペンをくすねた。
「ねぇ、君!」
声をかけると、彼が立ち止まる。
「えっ、僕?」
「羽根ペン落としたよ」
「あ、どうも……」
「それと――」
手渡す都合上近づいた距離。それを利用して彼の前髪へと手を滑らせた。独特の髪質をした黒髪を耳へとかけて、露になったその場所へ唇を寄せる。
「向こうでマクゴナガル先生が立ち話をされてるから、走ると減点されちゃうよ。グリフィンドールには秘密ね」
シーッ、と立てた人差し指をセブルスの口へと寄せる。彼はコクコクと何度も頷き、また赤毛を追った。
時が流れる。
私とセブルスの距離はグリフィンドールが消えてグッと縮まっていた。約束通り時間を作っては闇の魔術を伝授する。私が父様から教わったものを、私から彼へ。
「私よりもずっと覚えが良いよ。正直、悔しい」
「いや、まだだ。すべてを無言呪文でこなせるようにならないと」
「気を抜くと口が動いてるからね」
「なっ、今に出来るようになる!」
薄い唇を噛み締め練習を続ける彼の傍ら、私は彼が持ち込んでいた「上級魔法薬」を開いた。そこに彼はたくさんの書き込みをしている。魔法薬に留まらず、彼が開発した呪文もあった。退屈なレシピの羅列が思考の一部のように変化していて退屈しない。
ふとそこに新しい書き込みを見つけた。
「セブルス、『セクタムセンプラ』ってどんな呪文?私に使ってみてよ」
「――は?馬鹿、使えるわけないだろ!その呪文にはまだ反対呪文が存在しないんだ。一度唱えるだけで何度も切り付けることができる」
「反対呪文って必要?敵に使うんでしょう?助けることなんてないじゃない」
威力は未知数だが彼が開発したなら有用だろう。呪文の隣に書いてあった杖の動きを指でなぞる。戦いにおいて手札は多い方が有利だ。
「反対呪文はもう殆んど完成してるんだ。君が間違って僕に当てないうちに仕上げる」
「ふぅん、そう。なら私にも教えて。次の決闘練習でこれをセブルスに当ててあげるから」
ぎゅっと眉間を寄せるセブルスに私は声をあげて笑った。
また、時が流れた。
けたたましい破裂音、連続する閃光。赤い光に頬を裂かれ、リリーが杖先を標的へと向けた。
「アバダ ケダブラ!」
放たれた緑の閃光は深々と初老の男へ突き刺さった。ドスンとその身体が膝を付く。立て続けに鈍い音をさせて地面にぐしゃりと崩れた。他に動く影は見当たらない。
「初任務の成功おめでとう、セブルス」
「殆んど君の手柄だ」
「私の初任務では組んだベラトリックスばかりが盛大に遊んでた。気にすることはないよ」
「とにかくこれで――」
「伏せて!」
咄嗟にリリーがスネイプのローブを引いた。彼の胸があったその場所を、赤の閃光が通り過ぎる。背を預け合う二人を囲むように数人の影が迫っていた。
「闇祓い御一行様か。ご丁寧に相手をしてやる必要はないよ。行こう」
「あぁ。モースモードル(闇の印を)!」
高く掲げたスネイプの杖先から緑が立ち昇る。天高くすべてを見下ろす髑髏。その口から舌のように蛇が這い出していた。
今度は一段と大きく、時が流れる。
「ベラトリックスはハイになれて羨ましい。私はまだ吸魂鬼がそばにいる気がする」
秘密裏に行われた闇の帝王の復活。あのお方の指示の元で行われたアズカバンからの集団脱獄。その一人として私はルシウスのお屋敷にいた。
ホグワーツから駆けつけたセブルスが滋養の魔法薬を煎じてくれる。差し出されたゴブレットは煮詰めた紅茶色をしていた。アズカバンでの食事と比べれば何だってご馳走だ。
「私の家で待つ。それを飲み干したら来てほしい」
「……分かった」
『来てほしい』とは、随分とセブルスらしくない言い回し。何か重要な話がある。そう確信して彼の待つスピナーズ・エンドへと向かった。
そこで聞かされたのは、息もできなくなる告白。
セブルスは私を迎えると扉をくっつけ、最後に私がここを訪れた日と同じように、耳塞ぎの呪文を部屋全体へかけ回った。
「私は今、リリーの息子を守る任務に就いている」
「闇の帝王が戻られるまでの間、ダンブルドアを信用させ続けた努力が実ったって聞いてる。おめでとう」
「いや……リリーたちが我々の前から姿を消したのは、私がダンブルドアへ密告したからだ」
「それは……何となく察してた。『策がある』って言ってたのは、これなんだって。でも――」
「リリーは死んだ」
直接的な言葉を選んで言った彼の表情を、私は見ることができなかった。
「だがその彼女が命を賭けて守ったものを、私も守りたい」
セブルスの言葉を真に理解するまでに、随分と時間を必要とした。彼の就く『リリーの息子を守る任務』の正体。忠誠の在処。
「流石はエバンズの騎士」
私の悔し紛れの独り言をセブルスは耳に入れなかった。
「どうして私に打ち明けたわけ?裏切りに加担しろって?」
「端的に言えば、そうなる」
到底即答できる問題ではない。いや、即答しないことが問題なのだ。私は闇の帝王へ忠誠を誓った身。父を亡くし、アズカバンにまで入って。だと言うのに……。
「少し、考えさせて」
私はセブルスを裏切ったかも知れない。それでもこの時、彼は何も講じず、私を見送った。
人生が一瞬で駆け抜けていく。
終わる間際に振り返ってみたところで仕方ないのに。しかしそのどれもに黒髪猫背の鉤鼻男がいたのだから、私の人生は彼で構成されていたのだろう。全く、余裕があれば声をあげて笑っているところだ。
余裕があれば
もう杖を持つことすら叶わない。徐々に身体の自由が失われていく。強かに床へ身体を打ち付けても痛みは感じなかった。
我が君と共にと決めたはずのこの命、いつから変わっていたのだろう。考えて、結局はこの有り様。セブルスに頼られたという甘い劇薬を私は飲み干したのだ。
『命までは賭けてあげない』
彼が決意を固めたあの日、確かにそう言った。本当にそのつもりだったのに、心は持ち主に断りなく変わっていくものなのか。それとも彼の灯火が消えかかる様を目の当たりにしてしまったせいだろうか。
古びた屋敷は静かで私好み。
隣で眠りこける間抜けな顔も私好み。
身体の隅々まで浸透する達成感も私好み。
「目を開けて、セブルス……」
代わりに私が先に逝っててあげる。お礼にその漆黒へ私の最期を映してほしかったのに。
あぁ、人生は上手くでき過ぎてはくれない
パチリ、と目が開いた。一面真っ白の世界。まるで立ったまま寝ていたような状態。直感的にここが現実世界ではないと理解した。夢とも違う。何度か瞬きすると、足元に芝が現れた。
面白い。
耳を澄ませれば誰かの声がした。楽しそうな話し声。釣られて歩いていくと、友人がいた。父もいた。
欲するものが現れて、自分の居場所にだけ色付く不思議な世界。けれどすぐに飽きてしまった。話し込みたい相手がいるわけでもない。この世界には。まだまだ来ないでほしい。彼には。
朝も夜も空腹もないここでは時間の感覚などすぐに狂ってしまう。10分か、10日か、10年かさえも。時間に区切りをつけることこそが愚かな行為なのかもしれない。
この世界では現れた花が枯れることはなく、何も風化してはくれない。
「ここは?」
その声は突然現れた。
ずっと待ち望んでいて、一番来てほしくない人物で、私がここへ来た理由。彼は周囲を警戒しながらも、一歩一歩足を踏み出した。黒衣を引き摺るその足元は石畳。宛ら地下廊下だった。
「セブルス、久しぶり」
「君は若いな。……あの日のまま、か」
「あなただってそう」
世辞とは違うリリーの言葉にスネイプは小首を傾げた。そして袖口から生える無骨な指を眺め、前髪を視界に垂らす。
「どうやらここは時間の概念が希薄らしい」
『ここは?』との最初の問いは自力で解決されたらしい。ここはそういう場所だ。辿り着いてしまったからには強制的に理解させられる。
「この世界の大先輩から、有難い教えをひとつ。リリーには探せば会えるよ」
「いや、結構。彼女の元には余計なやつもいるに違いないからな。私はもう、ただ静かに過ごしていたい」
そう言って彼はその場に腰を下ろした。本当に行く気はないらしい。胡座をかく姿は初めて見る。学生時代は膝を抱えるような座り方が定番だった。専ら木陰にいて、膝の上にはいつも本が乗っていて。
私はセブルスの隣に座った。真似て胡座をかこうとすれば、無言で彼に膝を押されて阻まれる。
「私がセブルスに静穏を与えた時なんてあった?」
「……ないな。死の淵からも叩き起こされた。全く以て理解できん」
自分の命を捧げる禁術だった。1998年5月2日の深夜、一か八かの賭けに、私は勝った。
「あれには私自身驚いたよ。私ってかなり優秀な魔女だったみたい」
「昔からそうだろう。魔法薬の成績も、私を訪ねる必要などなかった」
本当に、随分と懐かしい話。バレているだろうとは思っていた。しかし改めてそう言われてしまうと、何とも言えない気恥ずかしさがある。生娘のように視線をさ迷わせた滑稽な私は、この際だと投げやりに彼の膝へ触れた。
「セブルス、膝貸して?」
「……は?」
脈絡のない話題転換に、彼は眉間を深めるどころか間抜け面。
「一度も二度も同じことでしょう? 私の卒業前、最後の決闘練習後にはしてくれた」
「あれは君が私の呪いに当たってしまったからだ!それに――」
反論を並べる彼が学生時代に戻ったようで、微笑ましさにクスクスと抑えて笑った。しかし全身から不満を漂わせる彼の瞳に棘が備わる。それでも彼は立ち上がろうとはしなかった。
「ここって寝るくらいしかやることがなくて」
「ならばその辺に転がっていろ」
「寝物語にセブルスのことを聞かせてよ。私がいなくなってからのこと。ビードルは趣味じゃないから」
「断る」
しかしセブルスは胡座を崩し、その足で黒の枕を作ってくれた。硬くて、もう少し低い方が寝心地は良さそうな枕。遠慮なく頭を乗せれば、上から大きなため息が降る。
「ねぇ、泣いてくれた?」
「…………」
「えっ、嘘、本当に!?」
「寝言が煩いぞ」
口を手で塞がれ、そのまま起こしかけた身体を押し戻される。愛しの鉤鼻へ伸ばした手は容易く叩き落とされてしまった。
「生きていることが信じられなかった。違和感はあるものの首の傷は塞がり……隣で倒れている君を見つけた。私の気持ちなど、君には想像もつかないだろう」
「ごめんね、セブルス」
悪いとは、これっぽっちも思っていなくて。
「君が謝罪の言葉を知っていたとは驚きだな」
何処からともなく風が吹く。真白の彼方から来るそれは、色も香りも乗っていない。ただの空気の流れ。ここが現実とは違う世界なのだと改めて思い知らされる。
「セブルスはいくつまで生きた?」
「君よりも長くだ」
「新しい恋はした?」
「私にはリリーだけだ」
「意地悪」
私の気持ちをずっと昔に覗いたクセに。
「生来こういう性格だ。そんな人間に君は命を捧げるほど入れ込んだのだろう?」
本当に意地悪。
からかっているに違いない。そう確信して睨み付けた。しかし私を見下ろすセブルスの瞳は何の脚色もなく突き刺さる。惹き付けて止まない漆黒。前髪のカーテンが私たちを白の世界から隔離していた。
目を閉じれば唇が落ちてきたりしないだろうか。なんて。私は淡い期待に従った。
「い゛っ」
「いつかのお返しだ」
その考えは甘かった。降ってきたのはデコピンで、庇った腕の間から見た彼はニヤリと勝利に酔いしれる。細められた漆黒に覗く慈愛めいた何かは幻覚だろう。
今、彼は彼女の元ではなくここにいる。
けれど『リリーだけ』だと言ったその言葉も、嘘偽りないものに違いない。
「何年抱えてんだか。しつこい男」
「それで結構。寝る気がないなら退け。私が寝る」
容赦なく頭を押されては退くしかない。硬い枕は諦めて、青い匂いのするであろう芝に横たわった。
ゴロリとそのすぐそばに、彼の気配が並ぶ。
「リリー」
「寝物語なら話せないよ」
「私より先に起きて、今度は私を起こしてくれ」
「了解。その鉤鼻摘まんであげる」
フッ、と隣でセブルスが笑った。
「「おやすみ」」
また目覚める時まで。