03

「……秋吉って意地悪だなあ」
「今更」
 ということは、私の気持ちを見抜いていてのあのキスだったというわけか、そうするとあれはつまりどういうことなんだ。適当に引っかけてやろうと思っているんだろうか。
 そう思っていると、玄関のほうからにわかに音がして、母が帰ってきたのが分かった。
「おかえり」
「おきゃえり」
「ただいま! 比呂、今日はお母さんお手製のローストビーフだよ!」
「うわ、俺がめっちゃ好きなやつ」
 兄が相好を崩す。私と同じ垂れ目がよりいっそう強調される。それを満足そうに見つめる母の後ろで、ぬっと影が動いた。
「え。父さん?」
「父さんだ!」
 母の背後からひょっこり顔を出したのは、父だった。イギリスにいるはずでは、と私たちが驚くと、茶目っ気たっぷりに両目をつぶった。ウインクのつもりなのだ、あしからず。
「休暇だよ、亜衣、久しぶり!」
 母が兄に甘いのと同様、父は私に甘い。嬉々として飛びついた私を受け止めて、これでもかというくらい目尻を下げて鼻の下を緩ませている。
 久しぶりに一家四人の揃った夕食は、ほんとうに無駄なくらいに豪華だった。私も兄も小食なのに、腹が破裂しそうなほどに料理が並んでいる。これは、父が帰ってきたからだと信じたい。断じて兄が帰ってきたからというわけではないと思いたい。
「亜衣、明日焼肉行こう」
 食事を終えてたらふく食べたおなかをリビングのソファでなだめていると、父が誘ってくる。明日。私は考える間を置かず即答した。
「ごめん、友達と遊ぶ約束してる」
「パパと友達どっちが大事なの!」
「そうじゃなくて、約束してるから、そっちを優先させるだけだよ」
 ヒステリックに叫んでくる父に疎ましげな視線を投げると、傷ついた、とかなんとか言いながら私のとなりに座ってくる。
「その子と夕飯も食べてくるの? 夕方にお別れしてパパと合流して焼肉食べない?」
 なかなかにしつこいし、私が小食で焼肉に連れて行っても食わせがいのないことを父は渡英によって忘れてしまったのだろうか。
「焼肉より、スイーツ食べ放題とかがいいなあ」
「それでいいよ!」
 父は甘いものが苦手なはずだが、久しぶりということもあるのかあっさり了承してくれた。スイーツ食べ放題と言っても、食事系が一切ないわけではないし、父はパスタやパンを食べていればいい。ちなみに小食の私だが、ケーキやお菓子はわりと別腹だ。
「なら、友達と夕方別れて、父さんと合流する」
「やったあ!」
「親父さん、親父さん、俺は?」
 スイーツ食べ放題、の言葉につられて、兄が背後からしゃしゃり出てくる。父は、そんな兄をしっしと追い払うようなしぐさをした。
「お前は亜衣に迷惑をかけたから、しばらくお灸を据える」
「ひど! たしかに原因は俺だけど亜衣に飛び火したのは母さんのせいだよ!」
 たしかにその通りだ、そう、その通りだ。原因はお前だ。父も私とまったく同じことを思ったらしい。
「お前の言う通りだ。原因はお前が家出したせいだな?」
「うっ」
 ぐうの音も出なさそうな顔で、兄はすごすごと自分の部屋に帰っていった。その背中を見ながら、明日、明日、と徐々に緊張してくる。
 明日は、秋吉と一日遊ぶ予定になっているのだ。
 もっとおしゃべりしたそうな顔をしている父を置いて部屋に戻る。明日着ていく服はもちろん決まっている、先日秋吉と一緒に買ったワンピースだ。ただ、これを着ていくのは少しあざといというか、いかにもな感じがしないでもない。私の考えすぎかも知れないけれど、秋吉がどう思うか分かったものではない。
 とりあえず、少し伸びた髪の毛をどう料理してやろうかと雑誌のヘアアレンジのページとにらめっこして、伸びかけの前髪を留めるように可愛いバレッタをつけて、ドライヤーとブラシで少し巻いてみる。少しでも女の子らしいところを秋吉にアピールしたいのだ。
 可愛いと、もう一度言ってほしくて、そして言葉だけでなくほんとうにそう思ってもらいたくて、私は悩むのである。
 悩ましい私の苦しみは、夜遅くまで続いた。なんせ、今まできれいなストレートのロングヘアに頼りきっていたため、髪を巻くなどほとんどしたことがないのだ。何度も何度も、男子校から生還した今でも言うが、平々凡々な顔立ちをした私の唯一の自慢は、あのうつくしいロングヘアだったのである。

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