わたしはいつまでも、いつまでもきっとあなたを忘れることはないわ。

「まるで……俺が先に死ぬみたいだ」
「あら、違うの?」
 きっと喜んでくれると思ったのに、彼はそうとぼけて穏やかに笑って見せた。ヘーゼルグリーンの瞳がやわく細められて、頭上のライトに反射してきらめいた。ベッドに身体を横たえ、片肘で頭を支えてわたしを見下ろしている。
「死ぬときは一緒がいいな」
「そんなの、無理よ」
 絶対に、死んでも、そんなのはいや。同じくベッドに横になり、わたしは自分の腕を枕にして洗いざらしの長い髪の毛を四方八方に散らしている。その一房を手に取り、毛先を見つめる。少し傷んでいるかも?
「ねえ、傷んでいると思わない?」
「どれ」
 太い節くれ立った指が伸びてきて、わたしの髪の毛を攫っていく。じっと、少し寄り目になるくらい見つめ、彼は首を傾げる代わりに唇を曲げた。
「そうかな? 俺には分からない」
「女の子はそういうことに敏感なの」
「そうだね。気がつかなくて悪かった」
 傷んだそこにやわらかにキスを落とされる。髪の毛には神経なんか通っていないのに、なぜだかその唇の湿った感触まで分かるような気がした。指に髪の毛を巻きつけて遊びながら彼は言う。
「気になるなら、少しだけ切ろうか」
「……今はいいわ」
「なぜ?」
「起き上がる気分じゃないのよ」
 肩を竦めて首を振る。彼は心得たように毛布をわたしの身体に掛けてくれた。それから、数度、おもむろに鎖骨の下を軽く叩いた。まるで幼いこどもに、母親がやるように。
「俺の可愛いひとは、少し疲れたかな?」
「そうね、とっても」
「ごめんね」
 謝る気なんか微塵もなさそうな、そんなごめんね。それもそのはずだ、彼は反省なんかしていないのだから。何もかも、すべてについて。
 彼は黙って、わたしの髪の毛を撫でている。あっさりした味のする蜂蜜のよう、と彼が評する金髪が何度も撫でつけられて、わたしのこめかみを伝って滑っていく。ああ、どうして。こんなにもこのてのひらは心地よいのに、どうして。
「……眠たい?」
「いいえ……でも……」
「でも?」
 まばたきをする。目の前の、剥き出しの彼の胸板をじっと見つめる。スーツを着るには少し窮屈そうなたくましい身体。(もちろん、彼のスーツは完全に彼のためだけにつくられた特注品であるので、窮屈なんてことはない)
 そっと触れてみる。少し汗ばんだ、やわらかい皮膚の下にある筋肉の感触。わずかな肉しかついていないわたしの身体とは、ぜんぜん違う。
「どうしたの?」
 なぜだろう、思い出す。痩せて皮と骨ばかりの薄い肩をしていたパパを、今のわたしと同じように女性のやわらかな身体つきをしていたママを。
「生きているのね」
 心臓のあたりに指を置く。とく、とく、とたしかに拍動している。脈打っている。ここに、彼の生命がある。そのことが、なぜだか無性に腹立たしい。
「そうだね、人間だから」
「そうよね」
 そうよね、たとえあなたが人の皮をかぶった悪魔だったとしても、人間だものね。
 アイロニーもあらわに笑うと、彼は少し不思議そうな顔をした。けれど、再びどうしたのと聞いてくることはない。すぐにその顔にほほえみを刷いてわたしの髪の毛をととのえて額に唇を押しつけた。おやすみ、言葉にしなかったけれど、彼はたしかにそう言ったはずだ。額面通り受け取って、目を閉じる。
 視界が薄暗くなって、でもこの部屋は明るいから自分の瞼を流れる血の色を視覚が感じ取る。そうか、わたしも生きている。
 瞼にもキスが落ちてきた。受け取って、けれど決して何かを返すことはしないまま、わたしは眠たくなんかなかったのにやがてまどろみに足を引きずり込まれていた。

 いつまでも、忘れてなんかあげないわ。あなたはひどく狡い人だったことを、誰にも言わないままひとりで何度か思い出すの。そしてやがて、わたしも朽ちていく。
 それがあなたにわたしができる、唯一の復讐よ。


20170722

prev | list | next