ふらりと、ジェイミーがわたしのほうへ駆け寄ってくる。そしてモニカが平手打ちしたほうの頬に手を添えて、撫でた。
「冷やしたほうがいい。氷があればよかったけど……仕方ない、水で冷やそう。バスルームへ」
 わたしを椅子から立ち上がらせて、ジェイミーはモニカなんてまるで見えていないふうにふるまう。バスルームに連れ込まれる直前にモニカのほうを振り返ると、彼女は頬を引きつらせて青褪めていた。
 バスルームの洗面所で、ジェイミーはタオルに水を吸わせて絞り、わたしの頬に当てる。
「腫れてる……可哀相に……」
「……モニカは」
 悪いことしてないわ。そう言おうとした唇を塞がれた。入ってきた舌に、素直に舌を絡ませると、ジェイミーが眉を寄せて唇を離した。
「血の味がするね。切った?」
「そうね、あのね、モニカは……」
「痛くない? 口の中はさすがに薬は塗れないな」
「ジェイミー」
 モニカ、という存在そのものがないものであるかのようなジェイミーの言動に、わたしは、嫌な予感を覚えた。
「可哀相なレイラ。痛かっただろう」
「……別に……」
 腫れた頬に指を滑らせ、彼は大きなてのひらで包み込む。
 違う、可哀相なのはモニカ。ジェイミーのことが大好きなのに、彼がほかの女に熱を上げているところを一番近くで見続けなくちゃいけないモニカ。わたしがひどいことを言って傷つけたモニカ。
 薄々、モニカに手を上げられることは分かっていて、わたしを黙らせてほしくて言ったのに、こんなのってない。
 いたわるようにわたしの手を握り、頭を撫でる。優しい手つきはいつもと変わらないのに、なぜだかひどく空恐ろしく感じている。ジェイミーが人を殺すことを知ったときよりも。
「……ジェイミー」
「どうしたの? 痛い?」
 じっと、ヘーゼルグリーンの瞳を見つめる。そこに映ったわたしの顔が見えるくらいに覗き込むけれど、彼のほんとうのところなんてまるで見えなかった。
「……もう平気。痛くないわ。すぐに腫れも引く」
「そうかな?」
「こういう、怪我の治り具合とかって、ジェイミーが一番よく知ってるんじゃないの?」
 純粋な疑問だったが、ジェイミーは眉を引きつらせた。皮肉に取られてしまったらしい。自分で言葉を反芻してみると、ちょっと皮肉っぽかった、と反省する。どうも今日は気分がささくれ立っているみたいだ。
「ごめんなさい、深い意味はないの」
「いや。……ごめんね」
 彼が何に対して謝っているのか掴めないまま、部屋に戻る。わたしの食べかけの朝食のプレートとともに、モニカの姿が消えていた。
「……」
「どうしたの?」
「……何でもないわ」
 ジェイミーが何も言わないのが、かえって気味が悪い。まるでモニカがここにいないのが当然、と言うかのような。わたしを椅子に座らせて、ジェイミーは腫れた頬にキスをする。
「レイラ、俺の可愛いレイラ」
「……?」
「もうどこにも行かせやしない。誰にも渡さない」
 不思議なことを言う。こんな場所に閉じ込めておいて、どこにも行かせやしないだなんて。こんな人目につかない場所に閉じ込めておいて、誰にも渡さないだなんて。
「レイラ、不安にさせてごめんね」
「え?」
「俺が忙しくてあまりここに来られないのが、不安だったんだろう?」
「……」
 忘れ去られて朽ちていくかもしれないって思った。ジェイミーが新たな女の子を囲おうとしている可能性もあるかもって思った。それは、たしかに不安だったからだ。でも彼の思う不安とわたしの感じている不安はかけ離れている。
 わたしは彼に捨てられること自体が不安なんじゃない。彼に放り出されたあとのことを心配しているのだ。
 だってわたしは六年間も外の世界を見ていない。わたしは、わたしをむやみやたらと甘やかすこの人と、ちょっと邪険に扱うモニカしか、知らないのだ。
「……そうね、不安だったかも」
 ジェイミーの表情がぱっと明るくなる。馬鹿な人、私の一言一言に踊らされている。
 ほんとうに可哀相なのは、この人かもしれない。

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