08

 自分の部屋に荷物を置いて、いつものように着替えずに階段を降りてビスケットを持って仁さんのマンションに向かう。
 オートロックを抜けていつものように部屋のチャイムを鳴らすと、仁さんがドアを開けてくれた。うまく、顔が見れなかった。

――大事にされてる? 幸せにしてもらってる?

 そんな言葉がリフレインする。
 幸せにしてもらうために、仁さんを好きになったわけじゃない。野乃花にそう言ったのは、嘘じゃない。でも、幸せじゃないのも、事実だ。

「美麗?」
「……ママが、ビスケット焼いたから、持っていってって」
「ああ、ありがとう。上がって」

 部屋に上がって、ソファの前のテーブルにビスケットの入ったタッパーを置いて座る。仁さんが紅茶の用意をしているその背中をじっと見て、やっぱり好きだ、と思う。
 どうしても好きであることに理由が必要なら、私はきっとこう答える。仁さんの、強がりでさみしがり屋なところが好きだと。
 中学生だった仁さんから、神様はご両親を突然奪っていった。そのとき、仁さんは決して泣かなかった。唇を真一文字に引き締めて、ぐっと爪が手のひらに食い込むくらい握り締めて、絶対に泣かなかった。
 でも、背中が泣いていた。だから、私はずっと、仁さんのそばにいると決めた。
 何があっても、仁さんが望まなくなるまでは彼のそばにいようって、決めた。
 夕方の公園で、仁さんが私にくれた安心を、私も彼にあげたいと思った。

「美麗、食べなよ」
「仁さんも、一枚くらい食べたら」
「うん、じゃあ」

 丁寧な所作で紅茶を私と自分の前に置いて、ポットをテーブルの真ん中に置く。そして私の横に座って、ビスケットを一枚取った。

「まあ、おばさんのお菓子は、わりと砂糖が控えめだからいいけど」
「そうなの?」
「たぶんおばさん、俺が甘いの苦手ってこと、知ってる」
「え、じゃあなんで」
「……さあね」

 ふっと仁さんが柔らかく微笑んだ。それから、口をもぐもぐさせている私に手を伸ばしてきた。びくっと、必要以上に怯えてしまった私に、仁さんが不思議そうな顔をする。

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