08

「そろそろごはんだね。制服、着替えてからおいで」
「……」

 何事もなかったかのようにティッシュで指を拭いて、仁さんは部屋を出ていった。のろのろと椅子にへたり込んでいた身を起こし、制服を脱ぐ。姿見に映った私は、顔が赤かった。
 吸われた首筋に、小さくアザと傷が残っている。なんだかそれをひどく掻きむしってしまいそうで、私は慌ててそこから目を逸らした。
 仁さんは、私のことをどう思っているのだろう。ほんとうに、「餌」としか思っていないのかな。
 それでもいいと、望んだのは私のほうなのに、苦しい。それはきっと、篠宮先輩のあんな真剣な告白を聞いたせいだ。
 まっすぐに、てらいなく、私を好きだと言う瞳に、揺れたのはたしかだ。
 仁さんが好きだ、その気持ちに迷いも間違いもないけれど、先輩のあのまっすぐな瞳にぐらつく。あんなに真剣に思ってくれる人が、私にもちゃんといたんだって、思う。
 心がちかちかと点滅を繰り返す。頭の中で、篠宮先輩の顔を仁さんのそれにすり替える。そんなことをしてから、ああ、私最低だ、そう思った。

「美麗、ごはんよー。早く下りてきなさい」
「あ、はーい」

 慌てて部屋着に着替えて、その考えを無理やり頭の隅に追いやって階段を駆け下りる。
 リビングに向かうと、すでに仁さんとママが席について私を待っていた。

「いただきます」

 もそもそとから揚げを口に運びながら、仁さんを盗み見る。いつもと同じ、穏やかな顔。
 明日、どんな顔をして篠宮先輩に会えばいいんだろう。会わないことを祈るばかりだが、きっとそうもいかない。先輩は、きっと私に会いに来る。そんな、妙な確信があった。
 ご飯を食べ終えて、仁さんが帰ると言うのをママが呼び止めて、結局勉強を見てもらうことになってしまった。
さっきと同じ体勢で、私に覆いかぶさるようにして仁さんがテキストとノートを覗き込む。

「ああ、ここはこの文法使って」
「うん」
「……美麗」
「何?」

 振り向くと、意外と近くに仁さんの顔があった。かっと顔が熱を持つ。それをくすくすと笑い、仁さんは呟いた。

「におい、消えたな」
「え?」
「吸血鬼は鼻がいいんだ」
「……?」

 なんのことを言っているのかよく分からないけれど、仁さんの機嫌はよさそうだった。
 篠宮先輩は、きっとこんなほんとうの私のことを知ったら軽蔑する。とぼんやり思う。でも、それでも私は、仁さんとのこの関係を壊せない。
 先輩が勇気を出して、先輩後輩の関係を壊したのに、私は臆病なままで前に進むことも後ろに下がることもできないでいる。そんな私を、きっと軽蔑するのに。分かっているのに。
 もう少しだけ、このままでいさせて。「餌」でもいい。仁さんのそばにいたい。
 いつか壊れるなら。それが今じゃないなら。私はこのままでいい。

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