トニー・レッドグレイヴ作戦/後編





 バスルーム部隊・エコーとフォックストロットチーム。
 コートを脱ぎ、ジーンズの裾を膝上まで上げて戦闘態勢。
 ネロがノブに手を掛けて訊く。
「開けるぞ」
 後ろの若が答える。
「あぁ」
 そして、バスルームのドアを全開にした。
 広いとも狭いとも取れる面積のバスルームにはバスタブと、道端の公衆電話みたいな型のガラス張りのシャワー室が角に備えてある。もっぱら皆が使うのはシャワー室で、滅多にバスタブは使わないのだが定期的には掃除をしていて、ネロはそこを襲撃されたのだ。その証拠にバスタブはまだ泡を落としていなく、スポンジも放りっぱなしだった。
 ドアを閉める。ツルツルする床を裸足で踏みしめてネロと若は標的の姿を探す。隠れられる所などたかが知れてるはずだ。しかし、バスタブの中を覗いても床を隅から隅まで見てもその姿は一向に見当たらない。不審げに若は首を回した。
「…変だな、逃げたのか?」
「でも俺出ないようにちゃんと閉めてったぞ?」
「んー……怪しい場所といえば…」
「そこは?シャワー室のシャンプー置いてあるとこ」
 ネロの指差す先には、洗髪剤やボディーソープなどが立て掛けてあるプラスチック製のラックがある。あの後ろに潜んでやしないかというわけだ。若はシャワー室のガラスドアを開け、その場に屈んで躊躇もせずにラックを掴み上げた。
 いない。
「ちぇー」
「あと隠れられそうなトコっていったら…」
 ネロがぐるりとバスルームを見回す。若はラックを元に戻して屈んだ視線から床を見つめるがやはり姿はない。一体どこに行ったのか、ネロを見上げようと顔を上げて、
 気づいた。
「――ネロ!上だ!」
「え」
 天井をも見上げる形になって初めて確認出来た。ネロも咄嗟に上を向く。それなりに高い天井には昨日の湯気の名残である水滴があちこちに張り付いている。そこを逆さまになってカサカサ動き回る標的を、ようやくその眼に捉えることが出来た。
 トビイロゴキブリ、別名『トニー』だ。
「ちっ、天井は盲点だったな」
 ネロは丸めた新聞紙を構える。その挙動を感じ取ったのかトニーの動きが止まり、その場で二本の触角が忙しなく辺りを探る。見れば見るほどおぞましいギンギラボディが脂っぽく光っていた。
「若、俺が叩き落とすからそこを狙ってくれ」
「ラジャー」
 攻撃開始。
 じりじり戦法はあまり好きではない。一瞬で片をつけてやる。ネロは軽めに床を蹴ってバレーボールのアタッカーの如く飛ぶと、新聞紙を振り上げ天井のトニーに向かって勢いよく払った。べちっと音がする。足を掬われたトニーは仰向けのまま真っ逆さまに落ちるが、空中で見事に態勢を整えて音も立てずに着地し、ネロもバスタブの縁に器用に降り立った。と、
「チェストォーーーーー!!」
 髭の持ってた古いアダルト雑誌二刀流を振り上げて猛然と若が飛び上がり、獲物に襲いかかる猫のようにトニー目掛けて振り下ろした。バッチーンと小気味よい音がバスルームに響く。手応えを感じて若はニヤリと口の端を上げたが、直後に殺したはずのトニーが雑誌を叩いたスレスレのところに居たことに気づいて面食らった。
「うそお!?」
「何やってんだよ馬鹿!」
 第二撃を食らわせる前にトニーが動く。目を見張るほどの速さで若の足の間を通り抜け、バスタブの外壁を這い上がってネロと同じく縁に辿り着くと身体をこちらに向け、そのままネロに向かってカサカサカサカサカサカサと突進してきた。
「! うわっ、ちょっとま、」
 予想外の行動にネロは反応が遅れた。加えて、幅が狭いバスタブの縁に立っていたのと、掃除途中で泡だったままだから余計表面が滑りやすくなっていたことも災いした。
 泡に足を取られて、ネロの身体が滑って後ろに倒れる。
「げ、」
 咄嗟に受け身を取ろうとするが、触れるところ全て泡立ちまみれだったので踏ん張るにも踏ん張れず無駄なあがきだった。ネロは為す術もなく尻からバスタブの中に痛い音を立てて落ち、角に後頭部をゴオン!とぶつけて目の中で星が散った。「うわっ」と若が思わず片目を瞑る。
 身体のあちこちと頭に壮絶な痛みが走ってしばらく動けなかったが、ネロは何とかそれをこらえて眼を開けた。
「………い゛っ…てぇ…」
 最悪だ、まさかゴキブリごときに失態をやらかすとは。身体中泡まみれでべとべとになるし後頭部にはタンコブの感触もある。肘をバスタブの底につきながら起き上がろうとしたそのとき、胸の上に何かがポトリと落ちてきた。
 ?
 若が「あ」と声を上げ、ネロは顎を引いて自分の胸元を見る。
 触覚がみょんみょん動いている。
 足と腹の感触がパーカー越しに伝わり、褐色のボディが輝き、そして、目の前にいるトニーのつぶらな瞳と眼が合った。

 時間が止まる、ネロの喉から大絶叫が上がる。



「――ん?」
 そのとき、トイレ単独部隊・チャーリーチームこと初代は、今まさにトニーをスリッパで叩き潰したところだった。元々狭い個室だったし、便器の後ろには予備のトイレットペーパーを入れる小さな棚があるのみで、あとはイチゴの芳香剤の匂いが漂うところがちょっと変わっている。これは前に依頼で遠出をした髭が現地で見つけてきた代物で、大喜びで大量買いしてきたので代えはまだ五つ以上もあったりする。
 トニーはドアの内側に張り付いていて、外から見ただけじゃ最初はどこにいるか分からなかった。取りあえず開けっ放しはマズイので便器の蓋の上に座ってドアを閉めたところ、目の前の内ドアに張り付いているトニーとご対面したのである。
 勝負はまさに一瞬で決着がついた。
 気づいたトニーが羽を広げて飛び立とうとしたところに、初代のイフリート仕込みのスリッパ叩きをお見舞いしたのだ。もちろん手加減はした、蝶番がちょっと嫌な音を立てたが。
 そして本体が物も言わずに落ちて、ドアに「トニーの染み」が出来たそのときネロの大絶叫を聞いたのだった。
「……苦戦してるみたいだな」
 あとで加勢に向かうかと思いつつ初代は手早くトイレットペーパーに残骸をくるんで便器に流し、満足そうによしと頷いた。
 さて、退治したことを知らせる合図を言わなくては。
 初代はドアを開け放して髭の事務机に向かい、ジントニックの瓶やアダルト雑誌と一緒に無造作に置いてあった金属鍋とお玉を手に取ると、鍋の底を二階にまで響き渡らせるほど大音量で叩いた。
 カンカンカンカンカン
「あー、こちらチャーリー!トイレ地点のトニーをジャックポット!繰り返す、トイレ地点のトニーをジャックポット!」



 チャーリーとかデルタとかフォックストロットって何ぞやと言うお方に説明しよう。
 これは髭が決めたことなのだが、せっかく軍隊ごっこをするのだから皆の呼び名も軍隊式に変えようと言うことになったのである。そして採用されたのが『フォネティックコード』だった。
 フォネティックコードとは核の誤動作や無線での聞き取り間違いを防ぐためにアルファベットを単語読みにしたものである。今では仲間内での無線通信での呼び合いやチーム名などにも使われているらしい。
 すなわち、Aがアルファ、Bがブラボー、Cがチャーリーと読まれ、以下Zまでそれぞれ違う読み方になっている。これをダンテ達は年功序列で当てはめ、三番目に年齢が高い初代がCのチャーリーとなったわけだ。ちなみに今の内に言っておくと、二代目はアルファ、髭がブラボー、バージルがデルタ、若がエコー、ネロがフォックストロットである。需要があるかは定かではないが、本格的なのでバージル以外は皆面白がって嬉々として喜んでいたのは敢えて割愛しておこう。



 二階に視点を移す。髭の部屋では、二代目と髭が一階からの合図を聞いて揃って顔を上げていた。
「――チャーリーって初代だっけか?」
「あぁ。早いな」
「まぁトイレだもんな、あそこ狭いし。で、どうだ?どこに居るかわかるか?」
「……少し待て」
 髭の部屋部隊・アルファとブラボーチームは意外にも苦戦していた。何せ部屋がとっ散らかっているため隠れる場所が山とあるからだ。これは洗濯が大変だなと二代目は思う。ゴキブリが踏んづけていったかもしれない服をそのままにするわけにもいかないし、仮に踏んづけていかなかった服があっても見分けがつかないから結局全部洗濯行きになる。水道代が大変なことになるだろう。これは髭に対して一度きつくお灸を据えなくてはならない。
「……旦那、なんか今あんたから嫌なオーラを感じたんだが」
「気のせいだろう」
 結局、これじゃあ闇雲に探しても見つかるのに時間が掛かるということで、髭は二代目の勘に任せた。
 二代目は物凄く勘が良い。じゃんけんでは不敗神話を作って現在も記録更新中だし、まだ彼が事務所に居候し始めた頃、ネロと買い物に出掛けた際に急に二代目から「止まれ」と言われてネロが足を止めた途端、目の前に鳥のフンが落ちてきてびっくりしたと言う出来事もある。本人曰く『何となく』らしいが、何となくでキリエの嬢ちゃんちの晩御飯メニューまで当てれるわけないだろうと髭は思う。その伝説はまた別の話だが。
 二代目は足の踏み場もない部屋を腕を組んで見回すと、唐突に遠慮なく歩き出してベッド横に脱ぎ捨てられていた黒いハイネックを手に取った。髭が見つめる中それを両手で摘まんで目の前に広げる。
 ぽろっ
「あ」
 出た。トニーがハイネックの中から転がり落ちた。さすが一発で見破るとは恐れ入るわと思いながら、髭は二代目の足下で仰向けにジタバタしているトニーを手に持っていた古新聞でバッチンと叩き潰した。死んだことを確認し、そのまま新聞紙でくるんで中身が出ないように畳む。
「結構あっけなく終わったな」
「そうだな…」
「次どうする?他ん所行くか?」
 新聞紙を持って立ち上がる。二代目は少し考え込み、
「…俺は取りあえずバージルの方を見てくる。お前はこれを洗濯機に入れてこい」
 と言ってハイネックをずいと渡された。
「おいおい、俺は召し使いじゃないんだぜ?」
「今朝寝惚けて俺のハムを食べたのは誰だ」
「……はいはい」
 二代目には色々な面で世話になっているからあまり逆らえない。髭はすんなりとそれを受け取り、
 ふと気になって、
「なあ、バージルの部屋行くんだろ?」
「あぁ」
「あいつ部屋入れさせてくれんのか?あんたでもなかなか入れたことないんだろ」
 バージルは少し潔癖なところがある。自分のテリトリーに侵入者が足を踏み込むことを極端に嫌がる節がある。ノック無しなど問題外、それでもお構いなく入る若は幾度も串刺しの刑にあってきた。だから今回バージル一人に部屋を任せたのだ。
 髭の言葉に、二代目は至極当然のように言い切った。
「ドアの隙間から覗き込めばいいだろう」
「のぞ、」
「見たいからな、バージルがトニー相手に右往左往してるの。あの性格からして嫌いだろうから手間取っているかもしれないし、な」
 そうしてうっすらと微笑む。こいつは本当に恐ろしい奴だと髭は思う。しかし、二代目の言った光景を一秒で想像した髭は今すぐ服を放り出してバージルの部屋の扉に張り付きたい衝動が芽生えた。
 だって、あのバージルが、だぜ?
 超見たいに決まってるだろ。
「……俺もあとで特急で向かうわ」
「静かに来いよ」
「イエッサー」
 これは面白くなってきた。カメラでも持って来ようか。髭はうきうきしながら部屋を出て一階に降りていき、二代目は気配を消しながら静かにバージルの部屋に向かっていく。
 作戦終了の刻は近い。





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