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 バスルームから凄い音が聞こえてくる。うわーとかぎゃーとか、メチャクチャに何かを叩く音とか凄い勢いで水の流れる音とかがひっきりなしに耳に入ってくる。
 あんまり行きたくないなと思いつつ、やはり心配だという心情もあったので初代はバスルームのドアに手を掛けた。
 この国では珍しく、事務所はバスルームと脱衣場が分かれている。事務机の後ろの扉をくぐって脱衣場に入り、さらにドアを開けてバスルームに行くという仕組みなわけだ。まったく面倒くさい構造だ。曇りガラスの向こうで二つの人影が忙しなく動いている。
「おーい。入るぞー」
 初代は、バスルームのドアを開けた。
 洗面器がすっ飛んできた。
「ぶっ!」
 いきなりだった。顔面にスパコーンと洗面器の底が平たくぶち当たって初代はたまらずひっくり返った。痛い。
「うわ!初代悪い!」
「だ、大丈夫か?」
 若とネロの声。初代は青筋を浮かべて大の字の態勢から起き上がり、
「……カウンターとはやるじゃねえか」
「いや違うんだって!そっちにトニーが飛んだから洗面器投げたら初代がいたんだよ!」
 若もネロも上から下までびしょ濡れだった。バスルーム内は何だかあちこちが泡立っているし、床ではシャワーが水を出しながら踊りくねっているし、シャンプーが倒れて蓋が開き中身がだだ漏れていた。
「…こりゃひでえ」
 二代目に叱られるぞ。
「あーもー!初代がいきなり来るから取り逃がした!」
「ちょ、俺のせいかよ!……ん?」
 待てよ、若の言い分からしてドアの方にトニーが向かってたから洗面器を投げつけたわけで、そこに自分が現れて見事にそれを食らったわけだ。となると、
「……トニーはどこだ?」
 若は口をつぐみ、反対にネロは呆けて口を開けた。
「…あれ?」
 沈黙。
 バスルームのドアは開け放されている。ドサクサに紛れて外に出たことは大いに考えられる。初代は脱衣場を振り返った。
 振り返った先で、トニーが床を歩いていた。
 同じく開けっ放しの、リビングに出る扉に向かって。
「――やば」
 リビングに行ってしまったら確実に終わりだ。隠れられる場所などいくつでもある。
「しょ、初代!早く捕まえろって!逃げられる!」
「俺!?」
「初代が一番近いだろ!」
 そんなこと言われても困る。スリッパは置いてきてしまったし、手袋をしているとはいえそのまま捕まえる勇気はさすがにない。初代は周りを見回し、先程ぶつけた洗面器が転がっているのを見つけて咄嗟にひっ掴み、膝立ちの態勢のまま勢いよくトニーの上から洗面器を被せた。
 被せたつもりだった。
 閉じ込める一瞬前にトニーが羽を広げて飛び立ち初代の攻撃をかわしていた。あまりに素早い動きに「こいつはホントにゴキブリか!?」と本気で思う。トニーは嘲笑うかのように皆に尻を向け、リビングへと自由を求めてドアをかいくぐろうとする。
 後ろでネロが吠えた。
「逃がすかあーーーーー!!」
 散々な目にあってきたのだろう、恨みがましい瞳で床に倒れていたシャンプーの容器をぐわしっと掴む。力強く握ったせいでぶちゅ、と中身が飛び出す。野球のピッチャーのように構えると、おらあ!!と叫びながら凄い勢いで投げつけた。それは若の頬を掠め初代の頭上を通り過ぎ、ぐるぐる回りながらトニー目掛けて突っ込んでいく。
 だがしかし、その時点でトニーは既にドアをくぐっていた。何の危険でも感じていないかのように、トニーはブンブン羽音を鳴らしながらリビングに入るとすぐ右に逸れて見えなくなってしまった。
 そして悲劇が起こった。
 トニーと入れ替わるように、髭が左からひょこりとこちらに顔を覗かせたのだ。
「あ」
「え、」
 デッドボールだった。
 髭のツラにシャンプーの容器がバッコーンとクリーンヒットした。髭は物も言わず反動で顔をのけぞらせ、後ろに倒れるかと思いきや何とか足で踏み止まって上体を元に戻す。薄水色のシャンプーの液体を顔下半分に被ってしまい「うぇぇ」と唸る。
「うえ、ぺっぺっ!苦!口に入ったぞ!」
「ご、ごめんおっさん!」
 まさかのタイミングの良い登場に拍手を送るしかない。若が場違いに「おっさんすげー!」と爆笑している。髭は手で顔を拭いながら、
「何だこれ。嫌がらせか?」
 初代は苦笑い。
「……いや、あんたホント凄いな、色んな意味で」
 ネロが水気を絞ったタオルを持ってきた。さすがおかんは行動力が違う。
「あんたなんでこのタイミングで出てくるんだよ…」
「そんな事言われてもな」
 髭はタオルを受け取って実にオヤジくさくゴシゴシ拭く。
「おっさんトコはもう終わったのか?」
「まぁな、そっちは?」
「………今さっき逃げられた」
 トニーに自由を許してしまった、もう探しても見つからないだろう。作戦失敗だ。疲れた溜め息を吐き出しながらネロは網棚の上のバスタオルを二つ取り、一つを若に投げ渡した。
「そういえば二代目はどうした?」
 と初代。
 それで何かを思い出したのか髭はハッと手を止め、
「……いかん、こんなことしてる場合じゃなかった」
「は?」
 タオルを首に掛ける。ずっと持っていたハイネックを洗濯機の中に入れると、もうここには用は無いとばかりにぐるりときびすを返す。急に機敏になった髭に三人は「?」となり、若が、
「どしたのおっさん」
 そこで髭は肩越しに振り返り、
「二代目が今バージルの部屋覗き見してんだよ。トニーに四苦八苦してるところが見たいっつってな。俺もそれに便乗するんだ。お前らも来るか?」
 初代と若は目を丸くし、ネロは呆れた。
「おっさん最低」
「いや提案者は二代目なんだが」
「時間的にもう終わってんじゃね?」
「行ってみないと分からないだろ?」
 若は「俺も行く!」と兄の滑稽な勇姿に期待し、ネロと初代はジト目で髭を見ている。
「趣味悪いぜ髭」
「止めとけよおっさん。見つかったらヤバくね?」
「なんだお前ら見たくねぇのか?」
 二人は同時に押し黙る。そして同時に、
「見たいに決まってんだろ」



********



 ここからのセリフは囁き声でお送りしよう。
 二代目はドアの隙間から視線を外し、向こうから気配を消しながらぞろぞろとやって来た四人組を目にして柳眉を上げた。
(…水道管でも破裂したのか?)
 初代以外が皆タオル持参なのは確かに妙な絵面である。ネロと若はポンチョみたいにバスタオルを羽織っているし、髭は風呂上がりのおっさんみたいにタオルを頭に被せている。まぁ色々あってな、と初代は疑問をスルーさせて、
(で、どうなんだ。まだやってんのか)
(あぁ。というか……)
 二代目はちらりとドアに目を向け、
(…全く動きがない)
(?)
(まぁ見ればわかる)
 ドアは三センチ程開いている。しゃがんでいる二代目を一番下にして、ダンテ達はその三センチの隙間からトーテムポールのように顔を覗かせた。部屋の中はこざっぱりしていて、主の几帳面さが現れているのが狭い視界からでもありありと見て取れる。
 その部屋の真ん中で、単独部隊・デルタチームことバージルがこちらに背を向けて仁王立ちしていた。
 動く様子がまるでない。
(………何してんだあいつ)
 若が呟く。二代目が答える。
(推測なんだが、トニーが出てくるのを待っているんじゃないのか)
(え、自分から探すんじゃなくて?)
(その辺りについては分からないが、トニーが這って歩いたかもしれない物をバージル自ら触るとは思えない)
 沈黙が落ちた。あながち間違っていないかもと考えてしまったが故の沈黙だった。
(……じゃあなんだ、出てくるまでこのまんまってわけか?全てはトニーの気まぐれ次第ってことだろそれ?)
 呆れた声で初代が言う。びしょ濡れのまま服を着替えていないせいか若が鼻をすする。髭が、
(ちょっと音立ててけしかけてみるか?)
 ネロは髭をギロリと見上げた。
(んなことしたら殺されるぞ)
(俺待つの嫌いなんだよ)
(バージルが血管ブチ切って事務所半壊にしたらおっさんのせいだからな)
 二代目がこくりと頷き、
(そのときは、俺も真魔人化で髭を半殺しにするぞ)
 髭はその一言で押し黙り、ネロも冷や汗を垂らしながらバージルの背中に視線を戻した。相変わらず動いていない、ストリートで石像のフリをする芸をしたら間違いなく金が取れる。
 そのうちに、ポツリと初代が改まったように呟いた。
(……ま、進展がないと覗いてる俺らが馬鹿みたいなんだけどな)
 だよなぁと思いつつ、皆はその場から離れない。結局は好奇心が勝っていた。普段と違うバージルが見れるかもしれないと思うと一瞬でもチャンスは逃せない。いい歳して本当に大人げない。若が「なんかくしゃみ出そう」と人差し指で鼻をこする。




 視点をバージルに移す。
 バージルは部屋に入って閻魔刀を手に取り真ん中に移動したとき以外は、現在まで一歩も動いていなかった。瞳まで閉じている。端から見ればまるで瞑想でもしているかのようだったが、その実こころの中は大変な混沌ぶりだった。扉越しにいるダンテ達に気づかないほどに。
 何故なら、ゴキブリことトニーの気配が全く掴めないからだ。
 たかが虫ケラされど虫ケラ。成る程、『生きた化石』と言われるほど長く子孫を絶やさずにいただけのことはある。蝶が後ろからやってきても敏感に気づくバージルに気配を悟らせない技は見事としか言い様がない。だからこそバージルは苛々していた。
 二代目が予想していた通り、バージルは最初から自分であちこち探すようなことはしなかった。気配を探り当てて見つけたところを一刀両断するつもりだったからである。もちろん閻魔刀で。作戦ルールを破るから皆には秘密で。
 だがしかし、自らの思惑を外れてトニーは完全に気配を消し身を潜めた。この部屋にいるのは分かっているのだ、なのに見つからないとあってはバージルの沸点は急上昇した。もうそんなまどろっこしいことしないで自分で動けばいいのにと誰もが思うだろうが、一度決めた事を今更曲げるのはバージルの鋼のプライドが許さなかった。こうなったら出てくるまでいつまでも待ってやると固く心に誓い、バージルは間合いに入る敵を待ち受ける武士の如く直立不動でそのときを待っている。
 そして、いきなり「そのとき」は来た。
 背中を向けている扉の向こうから、へぶしっ!とクシャミが聞こえてきたのだ。




 その瞬間、初代とネロが若の口を凄い勢いで同時に塞いだ。
(何やってんだ馬鹿っ!)
(空気読めアホッ!)
 が、時すでに遅し。扉の隙間の奥でバージルが獣のように振り返り、こちらとバッチリ眼が合った。こりゃマズイと皆が身体を引いた瞬間幻影剣が展開され、扉の隙間に向かって弾丸の如く発射した。ダンテ達は素早く左右に転がるように避ける。ギリギリのところで幻影剣が扉の隙間から飛び出し、前にある壁に縦一列にカカカカカッと突き刺さった。
 氷のような沈黙。
 ギイイイと扉が古い軋みを上げて開いていく。左右の壁に避難したダンテ達はお互い目線で「お前が先に覗け」と主張する。が、まったくキリがないので「全員で一緒に覗こう」と初代が身振り手振りで提案し、皆はそれに頷き、
 一斉に部屋の中を覗いた。
「………何をしている貴様ら」
 鬼だ。
 鬼が立っている。
 確かに彼らはバージルの頭に角を、後ろに黒いドクロの影を見た。禍々しいオーラが全身から湧き立っている。
「いつからそこにいた」
 皆は目配せし合い、最終的に二代目に視線が集まる。二代目はまったく普段通りの表情でまったく普段通りに、
「ずっとだ」
 ブワ、とバージルから殺気が放たれた。風でも受けたかのように皆の前髪が捲れコートがひるがえり、髭の頭の上にあったタオルが吹っ飛ぶ。ネロの顔から血の気が引いていき、初代は己と事務所の無事を祈った。
「……そうか、正直だな。わかった死ね」
 今夜は野宿だろうかと誰もが思い、バージルが閻魔刀の柄に手を掛けたその瞬間、
「――あ」
 若が、呟いた。
 その一言で、ネロも二代目も髭も初代も気がついた。視線の先、バージルの左横にある清潔なベッド。
 その下の暗がりから、二本の触角が顔を出していたのだ。
「…バ、バージル!ベッド!ベッド下にいる!」
 ネロの叫びに次元斬をかまそうとしていたバージルの動きが止まった。ギロリと瞳がベッドに向く。視線を受けてトニーの触角がうにょうにょと蠢き、カサカサとその姿が現れる。この状況で出てくるとは何と命知らずなことだ、やはり虫は虫なのか。バージルはトニーを視界に入れた瞬間今までの苛々を思い出したのか、二代目がいるにも関わらず閻魔刀を思いっきり振り上げた。
「! ちょ、バージル!止め――」
 そのとき、ブーン、と羽音が聞こえた。
 それは、廊下を渡って皆のいる方角に向かって来た。最初に髭が気づいて身を引き、次に二代目が視認して、さらにネロと初代が「さっきの奴!」と叫び、最後に若がそれを認めて「うわ!」と声を上げ、その声にバージルが手を止めて顔を扉の方に向ける。
 バージルの部屋に、バスルームで倒し損ねたトニーが乱入してきた。
 仲間の危機でも感じて助けに入ったのかもしれない。しかしむしろこれは飛んで火に入る夏の虫だった。バージルは二匹目を見ても眉一つ動かさず、むしろ邪魔だとばかりに振り上げていた閻魔刀を持ち直し、身体を捻って飛んできたトニーを縦一線で斬り上げた。
 真っ二つに分かれたものが音も立てずに床に落ちる。
「……お見事」
 髭が口笛を吹いて呟く。実に呆気ない。あの苦労は一体何だったんだ――ネロと若は虚しい気持ちになった。バージルは死体に一瞥もくれず、これで邪魔者はいなくなったとばかりに閻魔刀を一振りすると再度ベッドの方に向き直り、


 グシャ。


「……あ」
 二代目が珍しく呟く。
 バージルが珍しく凍りつく。
 他の皆があんぐりと口を開ける。
 枯葉を踏むような音だった。バージルの右足の下から聞こえた。ご臨終の合図だった。
 今この瞬間、世界から切り離されて事務所の刻が止まる。
 誰もが凝視してしまう中、バージルはゆっくりと、恐ろしいほどゆっくりと自分の足を見下ろす。
 ブーツの下に、トニーの触角と足が見えていた。
 体重に潰されて黄色い『中身』が飛び散っていた。
 素晴らしいタイミングだった。バージルがバスルームのトニーに目を掛けていたとき、ベッド下のトニーは逃げ出そうとして動き出していたのだ。そこに身体を向き直らせたバージルの足が本当にタイミング良く降りてきて、
「うわあーーーー!!」「Oh Noooooo!!」「えんがちょ!バージルえんがちょ!」「アッハッハッハこりゃ酷え!!」と次々絶叫が上がる。踏んづけた態勢で固まったままバージルは動かず、前髪が垂れ下がり表情が見えない。それはなんとも気の毒な姿だった。そっと扉を閉めて何も見なかったことに出来ればどちらにとっても有難いことだっただろう。二代目から同情たっぷりな溜め息が漏れ、チリトリでも持って来ようかと考えた直後。
 突然バージルの頭の中から、「ブチッ」と物凄い音がした。
 それを聞いて図らずとも絶叫が止まり、またもや静寂が訪れる。
「――クッ、」
 圧し殺したような笑い声がバージルの口から漏れた。
「クックックックックッ……」
 肩が震えている。ざわざわと空気がざわめく。バージルの身体に魔力が満ちていく。ネロと若は青ざめ、髭がマズイなと一歩後退し、二代目は「今夜はキャンプか」と一瞬考え、バージルが殺気を纏って一気に魔人化した。
 初代が叫んだ。
「総員退避!退避いーーーーーー!!」
 バージルが激昂した。
「ダアーーーーーーーーーーーイ!!」
 事務所が無数の次元斬に包まれる。






















 余談だが、ネロが耳にした話によると、二代目がダグラス・チャン(49)の店を全壊にしたところを目撃した者が一人いたらしい。
 仕事に行く途中だったアンソニー・ラーナー(ゲイバー店長)は、銀髪の男前があの汚くて有名なダグラスの店の前でミサイルランチャーを構えたのを見て思わず足を止めたと言う。発射されたミサイル二発は汚い看板を突き破って爆発し、ただでさえ脆い建物ごと店をガラガラと崩壊させた。さらにそれだけでは飽き足らないのか、今度はサブマシンガンで煙の上がる瓦礫の山をこれでもかと粉々にし尽くした。これだけの目に会ってもなおダグラスは無傷で瓦礫からの奇跡の生還を果たしたが、容赦なくダグラスにもサブマシンガンを突きつけた男はどこまでも無表情だったらしい。ホールドアップしたダグラスに男は片眉を上げ、恐怖を染み込ませるが如く彼の左右に向かってサブマシンガンを撃った。どんなに嫌がらせや報復を受けても断固とした態度を取っていたダグラスもさすがに悲鳴を上げ、男が近づいてきてさらに腰を抜かし、
 そして、男はしゃがんでダグラスの耳元に何かを囁いた。
 ダグラスは一瞬で顔を白くし、突如として背中を向けて生まれたばかりの子馬のように足をもつれさせながら、何も持たずにその場から逃げ出したと言う。男は至極満足そうにそれを見送るとミサイルランチャーを担ぎ直し、何事もなかったかのように店を後にしたらしい。
 あんだけの男前が居たらうちの店も繁盛するのに、とアンソニーは店員に愚痴ったとかなんとか。






















 ――え?

 あの後に俺達と事務所がどうなったかって?


 そりゃもうあんた………





090721
最後のオチは某漫画のオマージュです(笑)












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