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 圭に謀られたせいというべきか、おかげというべきか。春から自分の進む道がとんとん拍子で決まっていき、心臓が口から出てしまいそうなほど緊張した牧くんのご両親への挨拶もつい先日終わった。
 「未成年、しかも将来有望なうちの息子に!」なんて怒鳴られるんじゃないかとビクビクしていたのに、結果はかなりすんなりとしたもので拍子抜けした。すんなりというか大歓迎というか「バスケしかない子で申し訳ないけど、末永く面倒見てやってください」なんて言われて戸惑ってしまったくらい。どちらかというと、いつも私が面倒見られてるようなもんだけど。


「圭。内部進学して寮に入るなんて、いつから考えてたの?」

 こたつでみかんの皮を剥いてる圭にずっと思ってた疑問を投げかけると、ちらっと私へ目線を向けたあと「大分前からぼんやり頭にはあったけど」とぼそっと返された。

 ”春には寮に入る。俺はここを出てくけど、姉ちゃんは牧について行かなくていいの?”

 先月、圭のこの言葉がキッカケとなって今後のことを真剣に考えた。牧くんの進路先を知っていたくせにわざとそこを伏せてたなんてと一度は思ったけど、悪戯でそんなことをする子じゃないってことは姉である私が誰より分かってる。圭なりの後押しだったのかなと思うと怒る気は消え失せたし「年が明けたら、牧くんのお家に行くことになった」と報告したあと、にんまり笑った顔が心底嬉しそうだったから、予想は確信へと変わった。

「……姉ちゃんが帰ってこなかった日さ。俺、咄嗟に牧に連絡してて」

 いつの話をしてるかなんて考える間もなく分かった。
 あの時少し肌寒い程度だった風は、今じゃすっかり攻撃的なまでの冷たい空気へ変わっていて、時間ってこんなにあっという間に過ぎるんだっけとぼんやり思った。

「自分で思ってた以上に牧のこと信頼してたんだなって思ったし、すんなり姉ちゃんを見つけ出してくれたのを見て……どう思ったと思う?」
「わかんないよそんなの」
「あー、肩の荷が下りた」
「かっ、肩の荷ってあんたね……!」
「手のかかる姉ちゃんだからなぁ。おかげで俺シスコン扱いだし」

 怒られるだろうと思ってびくびくして帰ったあの夜のように、頭の上にポンと手を置かれた。その手は私より随分大きくて、ちょっと寂し気な色を含む笑顔につい目頭が熱くなる。
 そう。春にはずっと一緒だった圭と離れることになる。寂しくないかと言われればそれは嘘になるけど、前みたいな恐怖心はなかった。

「仕事先は? もう言ってあんの?」
「院長にはこの前ね。……気づかれてたとは思ってなくて、凄いビックリしたけど」

 諸々の事情でこの地を去ることになりそうだから、3ヶ月後には辞めることになるかもしれないと伝えると、院長は私の明るい未来をそれはそれは喜んでくれて「寂しくなるけど嬉しい報告だね」と笑ってくれた。そしてこそっと「相手って、もしかして牧くん?」と言ってきたから驚きのあまり素っ頓狂な声がでた。

「この前街中で見かけたんだけど、二人があんまりにも幸せそうな顔してたからね」

 なんでバレてるの、と私が言うよりも早くニコニコ笑いながら「声かけそびれちゃったよ」なんて言う院長。動揺が隠せなくてその後は何も言えなくなってしまった。

 そんな現場を見られていたなんて恥ずかしい。今思い出しても少し頬が火照る。この話をこの前電話で牧くんにも言ったけど、しばらく言葉を失ってたっけ。
 新しい土地での職探し、引っ越し先。はじめの一歩を踏み出すためにすべきことは結構地味で大変だけど、情報誌をぺらぺら捲るたび気持ちが高揚する。それは隣で手を繋いでくれる人がいるからだろう。

「で、明日は行く決心がついたと」
「……うん。行ってみる」

 圭とそんな会話をしていると、タイミングよく明日の待ち合わせ確認の連絡が牧くんからきた。急なお願いだったにも関わらず快く引き受けてくれて感謝しかない。



***


「この辺りって、翔陽が近いよな」

 翌日、牧くんと落ち合った駅は海南の最寄り駅でも私たちの家の近くでもない。また健司くんと会ったら……なんて考えてるのかな。確かに今から行こうとしてるところは健司くんの家から近いから可能性はあるけど、そこは黙っておこう。
 駅から徒歩10分ほど歩いた先の住宅街。来たのは何年振りだろうか。子供の頃から歩いてた道は体が勝手に覚えてるもので、牧くんを先導している私の歩みに迷いは一切なかった。

「着いてきてほしかった場所って……ここか?」
「うん。ごめんねいきなり。バタバタして来られなくなる前に、最後見ておこうって思って」

 風通しのいいそこはただの更地。私が高校一年の頃まで住んでいた懐かしい場所だった。あれからどうなったのか話だけ聞いて一度も訪れることができなかった場所に今日初めて来ることができた。
 いろいろなことを思い出して泣いてしまうかもしれない、なんとか踏ん張っていたぐらぐらな気持ちがポキっと折れてしまうかも。長い間そんなことをぐちゃぐちゃ思ってたけど、いざ向き合ってみると頭のなかはスッキリしてるし、両親や実家の面影なんて全く感じない。笑えるほどそこには何もなかった。

「いやぁ〜、見事に何もないし何も感じないし。なんかバカみたいだね」

 形としてはなくなってしまったかもしれないけど、優しかった両親も暖かかった家庭も全部自分の中にちゃんと残ってたんだなと今になって気づいた。シズちゃんのときもそう。すごく悲しくて寂しかったけど、もらった言葉の数々は全部私の糧になってる。
 だから、圭と過ごす時間が終わるんだと思ったときも、悲しくはなかった。だって離れていても私はきっとあの子のことを思ってるし、逆もまた然りだから。
 前にハナちゃんに言われた”幸せだった時間は一生心の中で残る”っていうのは、この切なくて懐かしいふわりとした気持ちのことだったんだ。

「……少し喋ってもいい?」

 返事の代わりにすっと私を抱き寄せて優しく微笑む牧くんにぽつりぽつりと語りだしたのはこの家で過ごした思い出や小さい頃の夢の話。
 昔から家の中心人物はお母さんで、お父さんも私も圭も、全員お母さんが大好きだった。お父さんが疲れて帰ってきた日、圭がサッカーの試合で負けて泣くのを我慢してた日、私が友達と喧嘩して落ち込んでた日。いつも優しい笑顔で包んでくれて、私たちの帰る場所を守ってくれてたお母さんをいつからか尊敬するようになった。そんな大切な人たちを支えて癒してあげられる存在になれたら、なんて夢を見た。
 だけど、現実的にそんな家庭を作ることがいかに大変か。圭と暮らすようになって初めて知った。自分のことでいっぱいいっぱいになってる私には到底叶わない夢だと蓋をした。

「……お嫁さんになりたいって、そういう意味だったんだな」
「――へ?」
「悪い。この前聞いたんだ」

 牧くんが私のことを聞ける相手なんか一人しかいない。またあの子は勝手に……とつい眉間に皴が寄ってしまう。

「そういう家庭を作りたいって思ってただけ」
「……思ってた?」

 左手の薬指にはめてた指輪を何度か撫でながら、面白くなさそうな顔で真っ直ぐ私を見下ろす牧くんと目を合わせるのが気恥ずかしい。
 いや、まぁ、一緒に暮らすんだし、親への了承も得ている。しまい込んでた願望の蓋は少しずつ開いてるけど改めて聞かれるとやっぱり恥ずかしい。

「言わなきゃだめ?」
「そうだな。聞きたい」
「そういう家庭を、築きたいと思ってます。……牧くんと」

 額に一瞬だけ感じた熱はちゅっと音をたててすぐに離れた。見上げると嬉しそうに目を細めてる牧くん。好きだなぁとしみじみと思ってつい見惚れてしまいそうになったけど、こんなところを健司くんに見られでもしたらまたからかわれる。
 「さぁ、健司くんにばったり遭遇しないうちに帰ろう」と言うと、私たちが幼馴染といっていた理由がやっと分かったのか「あぁ……なるほどな」と納得して少し早足になるもんだから、声に出して笑ってしまった。


***


「楓さーん! この棚はどこに置きますか!」
「あっ、ごめん。それは〜……こっちの部屋にお願いしてもらってもいいかな?」
「りょーかいッス!」

 駅から徒歩10分圏内。来月から牧くんが通う大学もすぐ隣の駅。中心地ではないという点と、急行が止まらないという点で、東京の1LDKにしては安い好条件の物件をたまたま見つけてすぐに決めたアパート。内見のときも思ったけど、キッチンは使いやすそうだし築年数のわりにはそこまで古さも感じない。
 牧くんの部活の後輩二人と圭、そして牧くんの4人がいれば持ってきた家具のほとんどは動かせてしまうということでお手伝いにきてくれたノブくんと神くん。前に試合で見たことがあったくらいで神くんと対面するのは初めてで少し緊張した。”牧先輩の彼女”として見られるときはいつだって少し緊張する。

「予定より早く終わりそうだな」
「テレビと冷蔵庫と洗濯機に関しては今週送られてくるのを待つだけだし、私や牧くんの荷物少なかったしね」

 二人の必要なものを段ボールに詰めた結果、牧くんのお父さんが車で新居まで運ぶ方法が一番金銭的負担が少ないと協力を申し出てくれた。そのおかげで少しいい冷蔵庫が買えたのだから感謝しかない。

「紳一、後は手伝ってくれたみんなにちゃんと礼だけはするんだぞ」
「あぁ、分かってる」
「お父さん。その、いろいろすみません。ありがとうございました!」
「気にしないで楓ちゃん。紳一のこと、よろしく頼むよ」

 ふっと笑った顔が牧くんにそっくりなお父さん。まだ10代の息子と急に現れた年上の女が一緒に暮らすことになったというのに、牧くんのご両親はえらく寛大で私にとても良くしてくれている。会ったときから既に将来的なことをいろいろ許してもらってるみたいだったし、一体牧くんが家で私との関係をどのように説明していたのか気になる。「将来的に一緒になるつもりだ」とかしれっと言ってそうだ。
 そして車から荷物を降ろしたあと、お父さんはお金を牧くんに握らせて颯爽と帰っていった。

「え、今のお金ってもしかしてこの後のご飯代?」
「そうだけど……なんでだ?」
「も、申し訳ないよ! 私が払うつもりだったのに!」
「それこそ”今後のために使え”って親父が突っぱねる。甘えておけ」

 頭の上に乗せられる暖かな重みを感じるたび、こんなに幸せでいいのかなって思う。深く吸い込んだ空気から潮風の匂いはこれっぽっちもしないけど、これはこれでいいかもしれない。
 全員で協力して、ある程度の家具の設置や簡単な掃除を済ませたあと、近くのお店でご飯を食べた。本当に助かったから好きなだけ食べてねと言うと、さすがスポーツマンとしか言葉が出てこない見事な食べっぷりに笑ってしまった。圭だってこんなに食べない。

「それにしても、卒業してすぐ婚約なんて牧さんさすがっす!」
「一人の人を……なんて、カッコイイですよね」

 ノブくんが目をキラキラさせてる横で、神くんは頬杖をついて私と牧くんを微笑ましそうに見る。勿論そういう未来を視野にいれての同棲だから何も間違ってないけど、そんなキラキラした目で言われるとちょっと照れる。

「この前も、卒業式では凄かったですし」
「おい、神」
「卒業式って?」
「あー、あれか」

 にこにこ顔の神くんが口にしたのをすぐに牧くんが制止したけど、面白そうに話に乗ってきた圭。聞くと、この前あった卒業式で多くの後輩や同級生からボタンを強請られたらしい。すごい……ブレザーなのに……。

「そういえば圭もあの日はボロボロで帰ってきたよね。ネクタイもなかったし」
「うちはブレザーだから、ボタンよりそっち欲しがる女子が多いんだよなぁ」
「横山先輩モテますもんね。うちのクラスにも確かファンの女の子いた気がしますよ」
「あ、でも牧さんのネクタイは女子に渡してないんで安心してくださいね! 俺がもらいました!」
「あんなに喚かれたら渡すしかねーだろ……」

 ノブくんがぐいっと身を乗り出して私に言ってきたけど、私は学生じゃないし、いちいちそこに嫉妬はしてない。牧くんが私を大事に思ってくれてることは十分すぎるくらい分かってるつもりだ。それにしても、やっぱりファンは多かったんだな。

「バレンタインのとき、”彼女がいるから受け取れない”って突っ返された女の子たちがね」
「せめてボタンは寄こせって群がってるのは笑えたよなー。この屈強な男がもみくちゃになってる姿は撮っておけばよかった」

 そんな話初めて聞いた。確かにバレンタインはあげたけど、てっきり学校でもたくさんもらってるんだと思ってたのに。
 ちらっと牧くんを見ると「いちいち見るな」と怒られる。照れてる姿を後輩たちに見られるのが恥ずかしいのか「ちょっとトイレ行ってくる」とすぐに席を立ってしまった牧くんの背中を見て私たちはしばらくクスクス笑ってしまった。





 

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