この通りを曲がれば運河脇に出るというところで、ハッピーが悲鳴を上げた。
「な、ななな、ナツ!」
「どうし…うぉ!?」
右手が勢い良く後ろに引っ張られる。身体ごと振り回されてぐるん、と反転したナツは、引かれていたのが手ではなく持っていたパンだと気付いた。ばくり、と大きな犬が噛み付いている。
「お、おい、こら!これはダメだっ!」
そのまま奪われそうになって、慌てて踏ん張る。左手で牙の光る口をこじ開けると、犬は標的をナツに変えてきた。
「いっ!?」
元々丈夫な性質のため大事には至らないが、かなりの噛砕力だった。目の端に涙が滲む。
加勢を得ようにも、犬嫌いのハッピーはすでに豆粒よりも小さくなっている。パンを諦めて両手を自由にすると、ナツは犬の頭目掛けて多少手加減した拳を振り下ろした。
「おらぁ…っ!?」
すか、と腕が空を薙ぐ。犬はナツの放したパンに向かって飛びついていた。太い尻尾をゆさゆさと振って、機嫌良さそうに噛み千切っている。
男性が一人、まろぶように駆けてきた。
「だ、大丈夫!?」
「んあ?」
二十代後半といったところだろうか、何かの商売人らしく、品の良いスーツに、アタッシュケースを脇に抱えている。マグノリアでも裏路地では見かけないような、高級品を取り扱っていそうな人間だった。
男性は切れた息を整えながら、犬の首にベルトを付けた。太い鎖がじゃらりと音を立てる。
「急に首輪を抜けて走っていっちゃって……ごめん、このパンは君の?」
「おう。けどまあ、良いや、やるよ」
思えば元は包装に使われていたようなリボンだったのだ。残念は残念だが、ここでぐだぐだ言うほどの物ではない。
しかし男性は誠実そうな瞳で首を振った。
「それは申し訳ないよ、ちゃんと買うから。怪我はない?」
「怪我?」
言われて左手を確認すると歯形が付いていた。赤くなっているだけで、数分もすればそれも無くなるだろう。
しかし男性はぎょっとしたように顔を歪ませた。
「わ、痛そう!」
「んや、痛くはねえよ」
「あああ、どうしよう!保安に告げられたら商売が…!」
「いあ、言わねえし」
「そ、そうだ!」
「おーい?」
男性はナツを置いて一人盛り上がると、アタッシュケースを地面に置いて小さく開けた。素早くその中に手を突っ込んで、何かを掴み出す。
「これ!パン代と迷惑料に!」
「へ?」
「量産品だけどちゃんと宝石だから、売れば結構な額になるよ!だからお願いだ、保安には…」
「いあ、だから言わねえって」
「ありがとう!」
男性はナツの手にそれを握らせると、ぐい、と鎖を引っ張った。四分の一ほどになったフランスパンを咥えて、犬が行儀良く男性に従う。
手の中の物に改めて目を落として、ナツは狼狽えた。
「え、ちょ、待っ」
「じゃあ!」
逃げるように――実際逃げたのだろうが――男性と犬は足早にナツの前を去った。
リボンがケーキに。ケーキがパンに。パンが――。
「…こんなん、ルーシィに渡せってか」
ナツはそれを指で摘み上げた。しゃらりとした緻密な金鎖の先に、馴染みのある色の石が揺れている。
回りまわって、桜色が手元に戻ってきた。