このポケットには底が無い。
「超常現象だ」
「はい?」
思わず呟いた独り言に、ジュビアが見上げてくる。グレイは軽く手を振った。
「あ、いや……なんでもねえ」
やや熱を帯びた視線は離れそうにない。
誤魔化すためにジョッキを呷るも、中身はすでに飲みきってしまっていた。何もかも思い通りにいかない気分になって舌打ちしそうになる。
が、グレイはぐっとこらえて飲んでいるフリをした。
隣で動く気配がする――。
今ならば気付かれないとでも思っているのだろうか。それともこちらが気付く前提なのだろうか。ジュビアがまた少しだけ――ほんの少しだけ――椅子をこちらに近付けてくる。
かたり。気にしないようにしていても、木が擦れ合う音が脳に刺さる。
そしてまた、透き通るように白い華奢な手が、テーブルの下で小さく握られた。
握り締めているのはきっと――緊張と、決意。
グレイはジョッキをテーブルに下ろすと、ポケットに手を突っ込んだ。ジュビアを反映したかのように力が入る自分の手を、確認したくはない。
しかし視界から消えると今度は感覚的に探ってしまって落ち着かない。グレイは気を紛らわせるように服の内側をあさった。
――やはり、底が無い。
布には触れるが、それはなんの意味も持たない。行き止まりに到達しても探ることを止められず、無限に広がっているような気にさえなる。
もう何度、繰り返しただろう。
近付いてくるジュビア。ポケットの中を彷徨う自分。
丸いテーブルに等間隔で並んでいたはずの椅子は、この数十分でずいぶん偏った配置になっていた。
ここまであからさまな彼女に対して、知らないフリをしているのも時間の問題だとはわかっている。しかし今だ向き合うことが出来ない。
照れくさいのか。好意を受け止める覚悟がないのか。グレイはその理由を考えることさえ避けていた。一度隠した『発覚』は切欠を失ったまま、心の奥に強引に眠らせている。
ポケットはまだ底を知らない。
「ぐ、グレイ様、あの」
「グレイー」
ジュビアのか細い声に被せて、無遠慮に男の声が割り込んできた。グレイがそちらを向くよりも先に、きっ、と音が聞こえそうな動きでジュビアが反応する。
声の主――ナツは彼女の方を向くことなく、グレイに紙を一枚突きつけた。
「仕事、なんだけどよ」
「おう」
依頼書を受け取りながら、グレイは心の中で溜め息を吐いた。
(コイツみたいにお気楽にできたらな)
恋愛に縁のないナツならば、はっきり言われない限り寄せられた好意にも気付かないだろう。
何も気にしないで済むのなら。
(鈍いっつーのも羨ましいこった)
「グレイ?聞いてんのか?」
「ああ…」
ざっと依頼書に目を通す。依頼はナツらしい討伐系。報酬も悪くない。
ジュビアが横から覗き込んできた。
「いつからですか?」
「明日から……一泊か二泊ってとこだな」
「そんなにかかんねえって。日帰りで終わらせてやんよ!」
「ほー。じゃあお前一日二回も列車乗りたいのか」
「全力で泊まろうぜ」
「じゃあジュビアもその間お仕事行ってきます」
かたん、と椅子を鳴らして、ジュビアがリクエストボードに向かう。ナツはその空いた椅子に座ろうとしたのか背もたれに手をかけて、
「……うげ」
露骨に嫌な顔をして違う椅子に腰掛けた。