ゆっくりと考えを巡らせるように、ルーシィは言葉を紡いだ。
「あたしは…大学に未練があるわけじゃない。きっと、この家から逃げてただけなのよ。ちゃんと向き合わなきゃならないの。大丈夫だから」
「嫌だ」
「嫌って、あんたね…」
「オレはお前の笑った顔を見るんだって決めたんだ。お前ここに来てから笑ってねぇだろ」
また見透かされた。強張った表情を目を瞑ることで耐える。笑ってみせようと思ったが顔の筋肉はぴくりとも動いてくれなかった。
「これからちゃんと笑えるようになるわ。今はまだ、覚悟が足りないから」
「笑うのに覚悟なんて要らねぇよ。必要なのは笑い合える仲間だろ。オレがいるじゃねぇか」
ナツの声が震えたように聞こえた。それは部屋に二人しかいない状況を、ルーシィが急に思い出したからかもしれない。
目を開けると、ナツは真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「オレがお前の仲間になる。一緒に来いよ」
嘘のない、信じられる声で。ずっとずっと聴いていた、高くも低すぎもしない、あの声で。
行きたい。
しかし心の叫びに、ルーシィは従わなかった。反射的に頷きそうになる首を、腹に力を入れて耐える。
これを伝えてしまったら、取り返しのつかないことになる。
「ナツは…周りの環境がきっと、良かったんでしょうね。そんなこと言ってくれるの、あんただけよ。でもね、人は裏切るの。信用できないの。ナツがそうだ、とは言わないけど…」
わかっていた。ナツがそれに当てはまらないことは。こんな状況で、ルーシィを助けようと手を伸ばしてくるくらいだから。
しかし今ここで彼女を実家から連れ出し、どこへ行こうと言うのか。
収賄容疑調査がスキャンダルを起こすためとは言え、結局はルーシィの失脚を目的とする。依頼人の意向を無視してどうするのだ。
ナツは優しすぎる――こういう仕事に、向いていないほどに。
こんなことをしていたら、フェアリーテイルに居られなくなるだろう。
「あたしは無条件に誰かに委ねることはできないわ」
せめて突き放す。
わかって。ここにいちゃいけない。
じゃないと戻れなくなる。ナツも。あたしも。
ナツを無事に帰す手段のはずが、自分の気持ちを抑える目的を兼ねる。ルーシィは冷たく聞こえるように淡々と言葉を吐いた。
ナツは泣きそうに顔を歪めた。
「いい加減にしろよ…!お前が教えてた奴らだって、ずっとお前のこと信じてたじゃねぇか!」
え、とルーシィの喉が音を出そうとしたが、それは声にはならなかった。最後に見た、学生達の表情を思い出す。
確かに、追い出すような瞳じゃなかった。目立つだけの教授の下で、散々苦労もしていただろうに。それでも…思えば、誰もルーシィの講座を辞めようとはしなかった。隠し子騒ぎのときも。誰、一人として。
信じて、た?あたしを?
ナツは揺れるルーシィに追い討ちをかけるように喚いた。
「あいつら、お前を守りたいって、オレのこと追い出したんだぞ?お前が見てないだけで味方は居たんだ!オレだけじゃねぇんだよ、ハッピーだって、グレイだって!お前が誰にも信じてもらえないって思い込んでるだけだ!」
ナツは一体、何を言っているのだろう。ルーシィは半ば停止した思考で、ぼんやりと彼を見ていた。もしそれが本当なら。いや、ナツのことだから本当なのだろうけれど。
あたしは、今まで何をしてたの?
ナツはすぅ、と息を吸って、一際強く言い放った。
「オレらは絶対、裏切らねぇ!」
再度掴まれた肩が、痛い。
それは恐らく、ずっと聞きたかった言葉だった。誰かに、そう言ってもらいたかった。もう、嘘を吐く必要はない、と言って欲しかった。
涙の向こうで、ナツが息を飲むのがわかる。しかし、ルーシィはそれを拭うこともせずに、かぶりを振った。
「ごめん、ナツ」
間違っていた。きっと、何もかも。信じられない、なんて、言い訳だった。傷付くのが怖かっただけで。
ルーシィは落ちた雫が絨毯に吸い込まれるのを見て、何もかもが遅いことを悟った。
ここはもう、ハートフィリアの家。
「あたし、結婚するの。もう、逃げられないの」
せめてナツは、無事にフェアリーテイルに帰って。またあのラジオを聴かせて。
そうしたら、あたしはこの幸せな数日間を思い出せるから。
「オレが連れ出してやる」
「誘拐犯になっちゃうよ」
ルーシィは肩の手をそっと外すと、一歩距離を取った。
目に焼き付けておこう。今この時を。
本当に最後だと思ったら、自然に笑みが浮かんできた。
「ありがとね。ナツの言葉、嬉しかった」
楽しかった。幸せだった。麻薬みたいな、ふわふわした日々。
さよなら――今度こそ。
あたしはこの思い出と想いだけで、この先を生きていく。
ナツは納得しない様子で、ぎり、と奥歯を噛んだ。
「強情だな。触るぞ」
「ダメ」
伸ばされた手が、ルーシィの制止によって中途半端に止まる。ナツはやって来たベランダを振り返った。
ここは三階――どうやって上ってきたのか、そもそもどうやってこの家の敷地内に入ってこられたのか。
魔法使いみたい。
折角なら王子様、とかもっと可愛いことを考えれば良かった、と思いながら、ルーシィは頭に浮かんだ策を実行に移すことに決めた。
最早、無理やり帰らざるを得ない状況を作るしかない。
こちらから嘘の情報を流して警備を撹乱すれば、きっと無事に帰り着けるだろう。
ナツは窓の外を確認しながら低く呻いた。
「こうなったら嫌っつっても連れて帰るからな」
「無理よ。この家は今から厳重態勢に入るわ」
「へ?厳重態勢?」
「うん、暴漢が侵入したから、ね」
ナツがルーシィに視線を戻した。それにこくり、と頷いて。
「ぼうか、んっ!?」
聞き返されると同時に、ルーシィは着ていたブラウスの身頃を力任せに左右に引っ張った。ボタンが弾け、しなやかな布地がびりり、と破れる。
それをもう一度胸の前で合わせるようにして、ルーシィは全力で叫ぶために息を吸った。
「きっ、ぅ…んんっ!!」
ナツの浮いていた手が、彼女の口を勢い良く塞いだ。
反射的に踵に力を入れたが、バランスが崩れるのはどうしようもなく、ルーシィは背にしていたベッドに倒れ込んだ。ダブルクッションが沈みすぎることもなく二人分の体重を受け止める。
と、そこでようやくナツも一緒に倒れてきたことに気付いた。
「び、びっくりした…」
ルーシィを押さえたまま、安心したように肩の力を抜いている。なんでこんなに反応良いのよ、とぼやきつつ、ルーシィは半眼を作った。
重い、と言ってみても、口を塞がれた状態では唸り声にしかならない。ナツは手を離さず、口を開いた。
「お前な…っ…」
それが途中で不自然に凍りつく。半開きになった唇をそのままに、ナツはこちらを一心に見つめていた。黒に近い瞳孔に、ルーシィが大写しになっている。
その自分にも見つめられた気がして、小さく喉を鳴らした。他に何も見る物がないのかと言いたくなるほど、彼女はじっとルーシィを見返している。息がしにくく苦しかったが、顔の下半分を覆った手の温もりは、ルーシィにとって心地よかった。
やっぱりあたし、ナツは怖くないみたい。
他の人と何が違うのか。
危害を加えないとわかるから?子供みたいに笑うから?それとも。
あたしがナツのことを好き、だから?
押さえつけるような手の力が、ゆるゆると抜けていく。
ふ、と瞼を下ろそうとしたとき、視界に何か動くものを捉えた気がした。