講義棟の一室で、会見の準備を行っている。ルーシィは控え室として用意された部屋で、学長の目と対峙した。
「気持ちは変わりませんか」
「申し訳ありません」
学長は何も辞職せずとも、と言ってきた。年頃の娘に恋人が居たとしても不思議はない。教授室の私物化については事実無根であるし、それを弁解出来れば問題はない、と。
しかしルーシィは裏でこれを操っている人物が居ることに気付いている。もしスキャンダルが偶然であったとしても、収賄を密告してルーシィを陥れようとした人物が居ることは間違いない。自分が地位に縋りついている以上、これからも大学で騒ぎが起こるのは明らかだった。
「大学には、本当にご迷惑ばかりおかけしました」
「いえ…君の功績は素晴らしいものです。おかげでうちも入学希望者が増えました」
本当に残念です、と零した老人に、ルーシィは淡く微笑みを返した。
ノックの音が聞こえ、弁護士が顔を出した。「時間です」
学部長が興味の薄そうな表情で後ろから覗き込んでくる。
「ハートフィリア君、辞めると言っても、メディアの露出が多い君のイメージは、大学のイメージに直結していますからね。くれぐれも気を付けて下さいよ」
「わかっています」
あたしは最後までルーシィ・ハートフィリアであり続けるだけ。
爪を揃えて立ち上がり、扉の向こうを睨みつけた。
「今回報道されている件ですが、私は職場の私物化は一切しておりません。もちろん来客はありますが、常識の範囲内です」
「写真の男性ですが、彼はどこのどなたなんですか?」
「一般の方ですので、個人情報は差し控えさせていただきます」
ルーシィは早速出た質問に内心がっくりと頭を垂れた。予想はしていたが、マスコミの注目はやはり私物化云々ではなく、ハートフィリア財閥令嬢の熱愛発覚について、のようだ。
「今朝もいらしていたようですが」
「すぐに帰られました」
「家に泊まったのは事実ですか?」
「はい、事実です。しかし、恋人らしいことは、何一つありませんでした」
「恋人関係だと、お認めになるんですね?」
マイクやカメラが一段と近付くのがわかった。ルーシィはなんでもないことのように告げる。
「で、あった、と言わざるを得ません」
ざわり、と会場が揺れた。ルーシィは一躍有名人になってしまったナツを解放してやりたくて、ふ、と息を吐き出す。
「振られてしまいました。私の我侭に耐えられなくなったようです」
シナリオもサクラも用意していないガチの会見で、マスコミが騒然とした。まさかこの展開は予測していなかったのだろう。どこで知り合っただの、誰の紹介だだの、されそうな質問を全て抑え込むことに成功する。
10秒ほど経過してから、一人の記者が挙手した。
「お父上に反対されたのでは?」
「いいえ…父からは何も。私を尊重してくれていますので」
本当にナツが恋人だったとしたなら、どんな手を使ってでも別れさせただろう。いずれ成立する政略結婚のために、男の影があってはならない。ルーシィの父親は、そういう人間だった。今回の件も、恋人だと明言した彼女に怒り狂っているに違いない。
ルーシィは父親に愛されている令嬢の顔を作って、にっこりと笑った。
「私には、恋人などまだ早かったのだと思います。良い勉強になりました」
「では、しばらくは恋人を作るつもりはない、と?」
「いずれは、と思いますが、今のところ積極的に恋人が欲しいとは思っていません」
弁護士がそろそろ終了の合図を送ってきた。ルーシィは学長と目配せして、口を開く。その時、その質問は落とされた。
「まだ、好きですか?」
「っ…はい?すみません、もう一度お願いします」
咄嗟に、聞こえないフリをした。目線は学長にやっていたので、不自然では無かったはず。ルーシィは内心冷や汗を掻きながら、記者に向かって瞬きした。
再度、同じ質問が繰り返される。
「まだ、彼のことを好きですか?」
「いえ…もう良い友人です。お互い同じ気持ちだと思います」
ルーシィは一度微笑んでから、きり、と表情を引き締めた。
「騒ぎを起こしてしまったことに深く責任を感じています。私は、」
軽く唇を舐める。
「本日をもって教授職を辞任させていただきます」
再びざわめきが広がったが、今度は早く立て直された。
「学長は、納得されているんですか?」
「ハートフィリア教授の功績は皆さんも知っての通りですし、大学としても誠に残念ではありますが、本人の意向に沿いたいと思います」
「ご迷惑をおかけしまして、本当に、申し訳ありませんでした」
頭を下げて見た景色は、うっすらと滲んでいた。
引き出しの中に鎮座したおもちゃの蛇に悲鳴を上げかけて、ルーシィはかぶりを振った。
「今後の所属講座のことだけれど…学部長がリックマン教授の講座に、とおっしゃってたわ。教授のとこならやりやすいでしょう」
「はい…教授。どうして、お辞めになるんですか?」
「どうして?」
「だって、こんなの…辞めるような理由じゃないですよ」
「一般的にはそうかもしれないけど、あたしの場合はちょっと違うのよ」
多くは語らず、ルーシィはダンボールに私物を詰めた。少し迷って、蛇も中に放り込む。三人の学生はてきぱきとダンボールを組み立ててくれたが、そんなに必要になるほどには、詰めるべき物は無かった。
学生達は痛みを堪えるように目を細めた。
「でも…私達は、教授の下で勉強したかったです」
「ありがとう。嬉しいわ」
嘘でも。
心の中で付け加えてみるも、三人の瞳は熱っぽく、心の底から言っているように見えた。
あたし、この人達に何かしたかしら。
人数が少ない分、目をかけることは出来たが、仕事以外の付き合いは無かった。そんなに学業に熱心だったのだろうか。
ルーシィの疑問はノックの音に掻き消された。
「お嬢様」
「ええ、もう準備出来たわ」
弁護士とボディガード、そしてもう一人作業着の男が顔を覗かせた。ダンボール1つを運搬してもらい、ルーシィはバッグを肩に掛ける。
「それじゃあ、皆元気で」
「お世話になりました」
女子学生の頭が揺れた。恐る恐る、といった体で口が開かれる。
「…あの、教授、これを」
「なにかしら」
彼女が差し出したのは二つ折のメモ用紙だった。受け取って目を走らせると、11桁の数字が殴り書きされている。丁寧に書く気の全く見えない、荒々しい文字だった。
「私の、携帯番号です」
彼女の気遣いなのか、それとも捨てられない状況を作ることが目的なのか。その嘘に口元だけを笑みの形に整えて、メモをバッグに仕舞う。
「わかったわ、何かあったら連絡させてもらうわね」
「はい」
三人の瞳がぐらついた。
部屋の蔵書はそのままに、がらんとした机だけが主の空白を主張している。
ぱたり、と扉を閉めると、今まで当たり前のように見ていた風景が、夢だったのかもしれないと思えた。