陽炎


 


 最近、なんだか視線を感じる。
 というのも、どうやら間違いではないようで隣にいる麻智子も同じように話し、怯えている。

 「嘘だろ……」

 そして今日、その恐怖が現実のものになった。
 麻智子と並んでピーピーと音が鳴る固定電話を見つめる。

「どうしよう遵ちゃん」

 麻智子の肩を抱いて引き寄せる。麻智子はその瞬間ワッと涙を零して俺の胸に飛び込んできた。俺はそれを抱き留めて麻智子が泣き止むまで背中をポンポンと叩いた。


 恐らく無言電話が起こりはじめたのはつい数日前からだったという。
 麻智子の在宅中に何度か無言の電話が続き、一度それに出たことがあった俺は間違い電話だと思っていた。そして今日の仕事帰りに先に自宅に着いていた麻智子から悲痛な声の連絡を受けて家に飛びかえった。
 家に帰るとリビングに置いていた固定電話の受話器が外れたままに、麻智子は寝室に逃げ込んでいた。俺は受話器を戻し、麻智子を呼んだ。
 そして三十数件の無言の留守電メッセージをふたり並んで聞きながら、青ざめる麻智子を慰めた。

 ここ最近、俺も麻智子もどこからともない視線を感じていた。それは外出中に出歩いているときであったり、部屋の中でさえ視線を感じた。だが、カーテンや窓などを確認しても人間の影などは確認できなかったし、外出中でもあたりを見回しても知っている人物などいなかった。
 だからお互いに何かの間違いだろうと結論付けていたときだった。そして今回の無言電話で、以前の心配や不安が確信に変わった。

 警察に相談しようと二人で話し合ったが、まずお互いの身辺にそのようなことをする人がいないかということを打ち明けようということになった。
 例えば以前恋仲になった人物や、何か危害を加えたことのあるような自身に恨みを持っている人物などが無いかを夜通し確認し合った。
 固定電話の電話線は抜いておき、既に連絡がつかないようにしていた。だからか俺も麻智子も次第に冷静になり、話し合おうということになったのだ。

 俺も麻智子も互いに嘘はつかないと決めて腹を割って話し合い、心当たりのある人物について話し合ったがそれぞれに思い浮かんだ人物の現在を追うと、決まって幸せそうに自分の話をしてくれるだけだった。
 だからどうしても俺と麻智子にちょっかいを出してくる人物にはたどり着けなかった。

 一晩明けてから一先ず自宅近くの交番に駆け込んだ。しかし実害がないとのことで特に取り合ってもらえずに、パトロールの強化をするとのことだけ約束してもらい帰ってきた。
 確かにここまでお互いに恨みをもつ人間がいないとなると、ここ最近の視線に関しては何かの間違いで、無言電話も当人が電話番号を間違えているだけのような気もしてきた。それかただの悪戯で、それと視線の件が重なったとか。

「なんだか疲れたね」
「ああ、だな。一人の時はちゃんと戸締りをしておけよ。鍵をかけ忘れるのもありそうだから窓の鍵は開けずに過ごそう」
「そうだね」

 ここはマンションの三階だから人が入ってくるのは相当手間がかからないと無いと思う。例え無言電話が誰か知らない奴の悪戯だったとしても、用心はするに越したことないだろう。

「はあ。そんなに大変なことがあったのか」

 チリンと入口の鈴が決して広いと言えない喫茶店の店内に響いた。
 向かい合って話しているのは、大学の時からの親友の望木だった。望木には最近の事の次第を相談も兼ねて報告していた。望木は少し気の抜けたような返事をしてきた。

 学生の頃から望木は少し人よりも抜けているようなおっとりしたところがあり、そういう所が放っておけずにお節介をやいていたらいつの間にかいつも隣にいるようになった。
 そんな望木に相談したところで特にどうにかなるとも思ってはいないが、手放しで信頼できるのは望木だとも思った。望木に関しては同じ大学生生活を過ごした麻智子のことも知っているし、もし万が一のことがあっても望木になにか手助けをしてもらえるかもしれない。

「一先ず、無言電話は電話線を抜いて対処しているからいいものの、もしこのまま続くようなら引っ越しとかも考えなければとも思っていてな」
「なるほどね。でも、本当に麻智子さんはなにも隠し事とかしていないのかな」
「……どういうことだ?」
「麻智子さん、大学の時にはとてもモテていたでしょ。だから今も職場にでも好いてる男がいるんじゃないかな」
「なるほど。麻智子が気付いていないで、その男が横恋慕しているってことか」
「そうそう」

 アイスティーをストローで啜る望木にうんうんと頷いた。確かに麻智子は俺と付き合うまでに恋人が途切れないほど男たちに好かれていたし、事実俺もその中の一人であった。
 そもそもサークルで関係が近くならなければ交際ができるとも思っていなかったほどの関係だったが。

「確かにそういうこともあるな」
「だからその関係で探していった方がいいんじゃないかな」
「望木でもたまには役に立つんだな」
「まあ、困った時は頼ってよ」
「あぁ、ありがとうな」

 望木とは大学の学部が一緒で、ちなみに選んだゼミも同じだった。大学一年の頃からのの仲だからこの先これ以上の友情を築けるとは思わないな。
 麻智子が男から持て囃されていたとすると、望木という男も同じく女子から持て囃されていた。
 陶器のような透き通った肌に、主張しすぎない鼻筋の通った鼻に、ぱっちりとした瞼と薄く果実を食んだような唇は最近人気のアイドルグループにいそうな顔でもあった。
 だからか望木は見かける度に女子に囲まれて困ったように立ち往生していることが多く、なんだか心配になって事あるごとにお節介を妬いてしまっていたのだ。それからなんだかんだで大学を卒業しても交流を続けている。

「麻智子さんも大変だよね」
「ああ。俺だったらどうにかなるが、麻智子だけだったら心配だな」
「麻智子さんは今日は何をしてるの」
「今日は実家に帰っているよ。流石に落ち込んでいるみたいだ」
「そうだよね。実家には流石になにも被害ないと思うしね」
「だと踏んでいる」

 それから望木とは昼食をとってから少し買い物に付き合って貰ってから帰宅した。
 その夜だった。
 麻智子から電話が来て、実家で風呂に入っている時に風呂場の窓から人影が見えたとのことだった。それから急いで風呂を上がり父親を呼んだという。

 そんなことを聞いたら居ても立っても居られずに麻智子の実家へ迎えに行った。それから麻智子の両親と話し合い、今の自宅マンションの引っ越しの相談などもした。麻智子の父親からは田舎であれば別宅もあるからどうかと言われたがそもそも根本を解決しなければ、とも言われて二人して解決するあてもなくトボトボと帰ってきた。

「麻智子を責めたいわけじゃ無いが、誰かに横恋慕はされていないか?」
「そんな、横恋慕なんてあるわけないじゃない」
「そうか……」
「遵ちゃんこそ、誰かに好かれているなんてないの?」

 麻智子にそう聞かれて、そういえばそんなことは考えなかったなと逡巡する。しかしそれらしい人も出てこないし、その前に女性と話す機会もそもそも無かった。そう伝えると麻智子は視線を下げて落ち込んだ様子だった。

 それからマンションに着いて玄関ドアの鍵を開こうとすると、不思議なことに鍵が回らない。そのまま取っ手を握るとドアが開いた。
 もしかして鍵をかけ忘れて来たのか、それとも……。

「……麻智子、下がってろ」
「なに、どうしたの……」
「鍵がかかってない」
「えっ!」

 麻智子に荷物を預けて、ドアを開く。すると玄関タイルにあったであろう靴は荒らされて床に放り投げられていた。廊下の先を見ると既に見える範囲のリビングも荒らされている様子だった。玄関にある傘を手に取る。
 麻智子は後ろで「もうやめよう」と悲痛な声を上げていたが、俺はその声を遮るように前に進んだ。

 リビングに進むと麻智子が飾っていた写真立てが全て倒されてガラスが割れていた。キッチンに関しては麻智子が集めていたブランド物の調理器具などが散乱している。花瓶に飾ってあった花も花瓶ごと薙ぎ倒されて散らばり、観葉植物も根を掘り返すように土が散らばっている。
 寝室に向かうとタンスのものが全て引っ張り出されていて、麻智子のドレッサーも倒されて中身が転がっていた。鏡はかろうじて割れていないようだったが。
 麻智子の下着や洋服が散乱している。俺の服や下着も同様だった。

 それからトイレや風呂場も見て回ったが人らしきものはいなかった。ため息をつきながら麻智子の元へ戻ると、麻智子は少し離れた廊下で警察に電話をしているようだった。

「麻智子」
「遵ちゃん、私怖いよ……」
「必ずどうにかしよう」

 きっと狙われているのは麻智子に違いない。どうして麻智子が。
 麻智子の細い肩を抱き締めると麻智子は震えて俺の胸元を濡らした。

 それから警察が来て部屋の中の写真や指紋を調べて行った。被害届けも提出して、その頃には夜が明けてから午前様になっていた。
 俺も麻智子も部屋に戻る気分ではなく、近くのホテルに間借りすることにした。この際お金の問題ではないと話し、早急に引っ越すことをお互いに決めた。

「麻智子、少し気分転換をしないか」
「そうね……このままホテルで腐ってても時間がもったいないわ」

 そう二人で話し合い、二人で街に出ることにした。まずは映画館で今話題のロマンス映画を見た。そして映画のはしごをした。……これは学生時代に二人して映画が好きでよくデートと称して一日中映画をはしごしていたんだ。
 俺は映画の最中、そっと麻智子の手を握った。麻智子も同じように握り返してくれた。

 それから夕飯はファミレスでとり、ホテルへの帰り道を歩く。
 なんだか久々に気を休めることができた気がする。それは麻智子も同じようで、俺と麻智子は二人歩きながら手を握っていた。まるで学生時代に戻った時のような感覚だった。
 そんな時、後ろから人が走ってきた。ふいに視線が逸れて、それから俺は何かに吹っ飛ばされて地面にドカリと突っ伏した。麻智子は甲高い悲鳴を上げている。

 目を開けると白い天井だった。
 女性の声が聞こえて、視界に麻智子の顔が現れる。

「遵ちゃん」
「……麻智子」
「分かる? 聞こえる?」

 俺はその麻智子の悲痛な声に頷いた。
 あの時、どうやら俺は暴漢に襲われたらしい。そして麻智子は鞄を取られたとも言っていた。警察に事情を話していると流石に、何かしら心当たりはないのかと聞かれて俺も麻智子も黙ってしまった。
 よくあることだとその警察の担当は言っていた。男女関係で恨みを買っている者は多いと。


 それから程なくして退院してから、ホテルに戻ってきた。
 俺が入院していた間も一人で麻智子はホテル暮らしをしていたようで、その傍ら部屋の掃除に戻っていたという。
 そしてその晩に二人でもう一度話し合った。今後どうするのかに始まり、本当にお互いに恨みを買ってしまった人物はいないのかを調べた。
 今後としては一度部屋に戻り様子見をすること。そしてお互いの今の職場に異性が特にいないことを知り、二人ともまた絶望した。
 ちなみにその暴漢も未だ捕まっていないという。そもそも強盗目的だったと考えるのが一般的かもしれない。

「私、もう怖くて神社に行ったの」
「神社……?」
「うん。お清めに行きたくて」
「ああ……」

 女性はなんだって見えない存在と結び付けたがる。だが、確かに今回は不可解なことが多すぎる上に連続しているときた。そして犯人らしき人物も心当たりがない。……とくればもう頼る先は神頼みということなのだろう。

「そしたらお寺の人に、背後に何か連れてきているって怒られて……一応お祓いをしてもらったんだけど意味がないかもって……」
「……」
「私も、最初お金目的とかそういうの想像したんだけど、でもその人がお金はいらないからって……」
「じゃあ、俺も見てもらってお祓いに行かないとな」
「うん、そうしよう遵ちゃん」

 落ち込んでしまった麻智子を見たらいてもたってもいられなくて、ただお互いに身体を抱き締め合った。なんで俺と麻智子がこんな目に合わなければならないんだ。

「なるほどね」

 なんだか既視感のある光景に、またチリンと入口の鈴が決して広いと言えない喫茶店の店内に響いた。
 目の前の端正な顔をした男に目を移す。

「だからいい霊媒師とか妖怪払いとかそういうの知らないか」

 たしか、以前あまりにも女に付きまとわれてそういうものに頼ったことがあると話していた望木だ。もしかしたらそういった方に明るいのかもしれない。まさかここで望木に頼ることがあるなんて思ってもみなかった。

「霊媒師ねえ……」
「頼む。こんなことを言っているのは変かもしれないが、もう何も頼るものが無いんだ」
「いいよ。本当かどうかわからないけど、知り合いにそういうのが詳しい人がいるんだ」
「本当か!」
「うん。こんなことだけが僕にできることだよ」
「ありがとう、望木」

 それから望木が席を立ってからしばらくして、連絡先を教えても良いとのことでその人の連絡先を教えてもらった。そして望木の目の前で連絡を取り合い、一先ず後日望木と共に会いに行くことになった。


「お久しぶりです」
「ああ、よく来たな」
「は、初めまして。本日は……」

 そう言って頭を下げようとすると、肩を思い切りパンとその人に叩かれた。驚いてその人を見つめると、望木がその人の代わりか肩を擦ってくれた。

「ガハハ! そんなしんみりした顔をするな。そのナリだといいカモになるだけだぞ」
「は……はあ」
「一先ずその辛気臭い顔から察するに、お払いだとかの話だな?」
「そ、それは電話で話しました」
「そうかそうか! そうだったな」

 こ、この人大丈夫か?
 心配になって望木の顔を見やると、望木は相変わらずその人をジッと見ていた。
 芳田さんと呼ばれていたその人とは、望木を交えて少し古びた和室で話し合った。ここ最近の出来事から、人間の仕業ではないと言われた理由についても芳田さんに包み隠さず話した。望木はその間もずっと芳田さんのことを見ていた。

「なるほどな。坊主、ごめんな! 俺には力になれそうにない」

 一通り話を聞いた後に、その言葉とは裏腹に笑顔を向けてくる芳田さん。俺は内心、だろうなぁ……と思いつつもがっくりと肩を落とした。

「……ありがとうございました」
「おう、坊主。何も力にはなれねえけどこれをやるよ」
「なんですかこれは」

 ティーバッグのような三角錐の布に包まれたなにかに、持ち手のような同じ布のひもがついている。

「お守りだ」
「おまもり……」
「はい。五千円な」
「!」

 俺と望木は程なくしていつもの喫茶店に来ていた。
 芳田さんと会ってから、自分なりに探してきた霊媒師だの悪魔祓いだのと会ったりしていたが、どれもニセモノばかりでやれ百万円だのセール価格の水晶だのと色々な手段でお金をせびってきた。今思うと芳田さんは親切価格だったな。

「なるほどね。どれもだめだったのか」
「そうだ……。まあ、最近何も起こっていないし収まったと考えた方がいいかもしれないな」
「そうなんだ。それは良かったね」
「ああ、まあ良かったのかわからないが」
「遵くんに何かあったら麻智子さんが悲しむからね」
「俺が? どちらかというと麻智子が狙われているだろ」

 そう答えると、一瞬望木は驚いた顔をしていたがそれからヘラリと笑って「本当にそうかなぁ」と少しドキリとするような返事をした。

「とにかく、また何かあったら頼むぞ」
「何もないのが一番だよ」
「……まあ、確かにな」

 それから二人分かれて帰路についた。
 いつも通りの帰路を通っている途中で、「ごめんください」と声を掛けられた。あまりにもか細い声だったので幻聴かと思いながらも辺りを見回すと、少し離れた歩道橋の傍らにお婆さんが座りこんでいた。
 俺は事件か事故かと思い、急いでお婆さんに駆け寄るとお婆さんは暗い顔を少しばかり明るくしたみたいだった。

「どうしたんですか」
「ごめんなさいね。急に呼び掛けて……実は少し助けてほしくて」

 そう言いながらお婆さんが目を向けたのは、大きな箱状の荷物が入っているような布の袋だった。お婆さんの腰丈まであるようなその巨大な荷物はここまでお婆さんが運んできたのだろうか。少しぎょっとしながらも、俺はお婆さんに頷いた。

「この荷物を運べばいいんですね、奥様は歩けますか?」
「ありがとう、大丈夫よ。この荷物がどうにも持ち運べなくてね」
「そりゃそうですよね。ここら辺タクシーもあまり来ないから大変でしたね」
「ええ、ええ」

 歩道橋を二人で並びながら降りる。お婆さんの荷物は確かに大きかったが重さとしてはそこまで重くないため、恐らくここまで一人で運んできたのだろう。なんだか少し可哀想になって、このまま家まで運ぼうと心に決めた。

「あら、あなた何か不思議なものを持っているのね」
「え? 不思議なもの」
「ほうら、これよ」

 尻を指さされて、くるりと首だけを振り返る。そこにはティーバッグのような布がぶら下がっている。そういえば、芳田さんに貰ったおまもりを財布に括り付けていたんだった。

「これお守りでしょう」
「そうです。よくわかりましたね」
「私のいたところでは有名だったのよ。あなた、最近何かに困っているの?」
「ああ……実はそうなんですよ。最近色々と運が悪くて」
「まあ、運が悪いのね」

 それから俺の最近の身の上ばなしをした。お婆さんは黙って聞きながらももくもくと歩いている。なんだか変な奴だと思われなきゃいいな、なんて思いつつも自分を知らない他人に話すのは少し気が楽だ。

「あら、私のお家だわ」
「……大きいお家ですね」
「ありがとう。夫がとっても凝り性でね」

 そう言いながらほほほ、と笑うお婆さんがなんだか途端にお金持ちに見えてくる。というのもお婆さんの家だという所は大層な要塞のようにも見える塀に囲まれた、年月を感じさせる洋館だった。

「ここまでありがとうね。お礼にいいこと教えてあげるわ」
「いいこと、ですか……」
「あなたのことを大切にしている一番身近な人が、きっとあなたのことを傷つけるわ」
「……それは、どういう」
「さあね、あなたの心に聞いてみても良いかもしれないわね」

 じゃあ、ありがとうね。
 そういいながら軽々と荷物を持ち、塀のなかに入っていくお婆さんをぼうっと見送った。


 それから無事に家に帰ると、麻智子がシチューをつくって出迎えてくれた。久々の家の生活ですっかり安心しているみたいだ。あれから戸締りは気を付けるようにして鍵も変えたから、もう軽々と以前のようなことは起こらないだろう。

「今日は隠し味を入れてみたの」
「隠し味?」
「そう。味に鈍感な遵ちゃんは気付かないかなぁ」

 それから麻智子と二人でシチューを食べた。付け合わせのサラダは俺が作って、久々に二人並んでキッチンで料理をした。とても充実した時間だったと思う。

「う、うぅ……」

 その数時間後、俺はトイレに付きっきりになっていた。何かに当たったのかもわからない。夜中に突然腹痛や吐き気に襲われて飛び起きてトイレに篭ってからずっと出られない。ゲホゲホと咳込むと、咽せてしまい余計に咳き込んだ。生理的な涙が出てきて、便座を掴む手に力が入る。

 気を失い、目が覚めると便座に頭を凭れて寝ていた。その瞬間にふと思い出した。

『あなたのことを大切にしている一番身近な人が、きっとあなたのことを傷つけるわ』

『今日は隠し味を入れてみたの』


「それで、思ったんだ。もしかして麻智子は俺と別れたがってるんじゃないかって」
「なるほどね。それは大変だったね、もう大丈夫?」
「ああ……全て吐き出したら落ち着いたみたいだ。何度も呼んですまない」
「ううん、大丈夫だよ」

 チリン、と軽快な音が響く。涙を堪えて息を呑んだ。

「実はね、話そうか迷ったことがあるんだ。遵くんにとって良いことじゃないけど、聞きたい?」
「……ああ」

 俯きながらも辛うじて答えた。珍しく望木が口早に話し出す。俺は汗をかいているアイスコーヒーに口を付けた。

「僕ね、前に麻智子さんに迫られたんだ」
「……」
「勿論、そんな誘いには乗らなかったよ。だけど、麻智子さんはもしかしたら僕だけじゃなくて、そうやって遵くんの周りの他の人に手を出してたんじゃないかな」

 信じられないことを口にする望木に、頭が真っ白になって指先から冷えていく感覚を覚えた。

「思えば、遵くんがいない時とかに出来事は起きたんだよね。もしかしたらそれって全部麻智子さんの自作自演だったりしないかな」
「そ、んな……」
「だって、犯人の指紋だったりは出なかったんだよね。しかも暴漢の顔は見てないって可笑しいなと思ったんだ。だったらそう考えるのが妥当じゃないかな」
「……まさか、麻智子が」

 吐く息は小刻みに震えていた。

「もし別れ話をするなら、疑ってるっていう話はしない方がいいんじゃないかな。そこまでするなら、何をしでかすか分からない」
「……これ以上酷いことなんてないだろ」
「そうだけど、ずるずる引きずることになるならここで何も言わずに断ち切った方がいいよ」
「ああ、そうかもしれない……」

 その晩は家に帰る気も起きず、望木の家に泊めてもらった。望木に夕飯を作ってもらい、同じベッドで寝付いた。


「別れてきた。これから宿無しだ」

 最初は麻智子も渋っていた様子だった。しかし俺が何も聞く気はないという態度を取ると、それなら部屋は引き渡せないと言われた。元々引っ越しをすることを念頭に置いていたからある程度荷物は片付いていたが、麻智子の部屋を探す時間は一人で置いてほしいとのことだった。
 そこまで考えていなかったわけではない、望木の家に泊まった時に話していたことだ。

「ようこそ。自分の家だと思って寛いでね」
「望木、本当に俺にはもうお前だけだ」
「はは、ずっと居ていいんだよ」

 それ以降、俺の身の回りでは何も起こることはなかった。勿論、麻智子の周りも同じようだった。これは共通の友人から聞いたことだが。
 そして俺はというと、望木とのルームシェアが意外と心地良くて、未だに癒えない恋愛の傷を望木に癒してもらっている。

「あ、千切れちゃったのか」
「ああ……」

 いつの日か芳田さんに貰った三角のお守りの紐は千切れて廊下に落ちていた。いつの間にか大分黒ずんでいたそれは、もはやお守りには見えない。

「もう捨て時だね」
「ああ、だな。結局これはなんだったんだ」
「さあ。結局麻智子さんが元凶だって分かった訳だから、効き目はあったんじゃないかな」
「そうか……」
「でも、もうこうなるとゴミだね」

 取っておく?と振り返る望木に俺は首を横に振った。もう麻智子のことや、あの頃のことはけして思い出したくなかったのだ。

「そう。よかった」
「ありがとう、望木」
「こちらこそだよ、遵くん」


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