我輩はまだ名無しである
「…の度…ご愁…様で…」
「…ら…そ…丁寧に…りがとう…す…」
「…さか…驚い…よ…」
「本当…急…ってしまって…」
そんな言葉を耳だけで聞き流す。頭には入ってこない、入れない。こんなもの、きっと爺ちゃんは喜んでなんかいないんだ。俺には、俺だけには爺ちゃんが言っていた意味がわかる。頭が固いだとか、頑固だとか…そんなのではなく、ちゃんと爺ちゃんの気持ち。
婆ちゃんが死んでから急に小さくなったみたいに何処にも行かないで、家からも出ないでずっとこもりきりだった爺ちゃんは俺には優しくて、俺も爺ちゃんが大好きだった。
爺ちゃんはしきりに言ってたんだ。
婆ちゃんに最後の最後に痛い思いをさせてしまったんじゃないか、と。とても強く。
これならばまだ土に返してやりたかったと言っていた。
婆ちゃんが居た頃はしょっちゅう喧嘩ばかりして、婆ちゃんが「もう、この人はまったく」そう笑って美味しいご飯を作って爺ちゃんと仲直りして。尻にひいているようでひかれてるような爺ちゃんは表情にでなくとも楽しそうだった。
こんなにも息苦しい空間は他にない。
俺はそう思って散歩に出かけることにした。
あそこにはいつも湖があって、とても広いんだ。少し前にも爺ちゃんと一緒に湖に出掛けたことがあった。爺ちゃんも婆さんと一緒に来るのが日課だったって、懐かしそうに言っていた。
「あと、どれくらいの時間生きていればいいんだろ」
きっとこの先何十年っていう長い道のりが待っていて、きっと爺ちゃんや婆ちゃんが死んだ事もなんとも思わなくなって行くのだろうか。そしていつか、俺も。
水面をぼうっと見ながら頭の中で同じような言葉ばかりを反芻する。
もういっそ、このまま。
ゆらりと足元が揺れて身体が斜めに傾いた。目の前には星がキラキラ光っていてとても眩しかった。次の瞬間、ばしゃん、と音がして身体が沈んで。ブクブク、ブクブク。
青い星の中で身体が軽くなった気がした。
心なしか、気持ちも。
もう何にも囚われなくて済むんだ。
「起きろ」
「…んん、…ゲホッ…ゴホ…ッ」
「お前、この俺様の神聖な寝床で何をしている。」
自害などしてみろ、俺様が八つ裂きにして低級の下衆共に喰わせてやろうか。
そう、低く冷たい声で言われて意識がゆっくりと覚醒していく。その声は水みたいに冷たくて、なんだか少し、心地いい気もする。
もう一度目を閉じよう、そしたらきっとまたいける。
「寝るな。」
「へっ!?」
ばしり、と何かで頬を張られて飛び起きる。周りを見渡すと視界に入ってきた白髪のコスプレ?をしている男、そいつは俺をジッとみていた。
「だ、誰だお前…」
「お前俺様が見えるのか。」
「…ハァ?」
見えるも何も、目の前にいるじゃないか…。そう言い返そうとしてやめた。きっとこれはアレだ、なんていうんだ…あの痛い奴。
「…あ、えっと…助けて頂いてありがとうございます。滑って落ちてしまって…ありがとうございました。では、」
そう早口に告げてくるりと踵を返す。
…が、そこは元いた場所ではなかった。
湖には森みたいな小島が中央にあるのだが、…多分ここはそこだ。
「な、…んで、ここ…」
小さい頃に、一度だけここに来たことがあった。爺ちゃんが船を漕いで連れて来てくれたんだ。…あれは、何でだったっけ。
「俺様が連れて来てやったんだ。感謝しろ。」
そう言って踏ん反り返って自慢気な顔を見せる白髪男に俺は怪訝な目を向ける。
…ここには来てはいけないって、幼い頃言い聞かされてたんだ。確か、大天狗が人を喰らうから…って…。
「は、くはつ…」
「あ?」
パッチリと目を開ける白髪男、その瞳は月夜に照らされて黄金色に輝いていた。
「ひぃ…っ」
白髪に、黄金色の瞳、…よく見れば手には白い羽根の扇。ここでは鶴からとった白い羽根の扇を使うと言われているんだ。
「随分間抜けなツラだな。…ああ、それもそうか、目の前にこの俺様がいるんだからな。」
そう嫌味を言ってからニヒルに口元だけに笑みを浮かべる白髪男。
違う、これはコスプレだ…大天狗だなんて、本当にいるわけがないんだから…。
騙されるな、怯えるな、…落ち着け。
「そうか、俺様に怯えているのか。」
「は、…なにいって、」
「嘘は通じんぞ。俺様にはお前の考えが聴こえるからな。」
「そんなわけ、ないだろうが…。」
「お前の考えに答えをやろう。
俺様は大天狗様だ、良くわかったな。」
そう言ってその白髪男、自称大天狗はその白い扇を軽く震わせて見せる。
リーン、と鈴みたいな音が頭の中で響いた。
「白髪男…。」
「おお、起きたか。」
目が覚めて辺りを見回すと白髪男が外を眺めているところだった。
カサカサと音を立てたのは俺の上に乗せられていた葉っぱ達だった。なんとなくここは洞窟みたいで、床にはいっぱい葉っぱが敷き詰められていた。
「ここは…。」
「俺様の城だ。」
丸くて茶色い、饅頭か?を口にしている白髪男は出会った時とは違ってなんだか寂し気な表情で、少し、気に掛かった。
「食うか?」
「……」
「変なモノは入っていない。安心しろ」
『安心しろ』
その言葉、その口調、声の響き方。
何処かで聞いたことがある。
俺はひとり心細くて、泣いていた。助けを求めても来ないことを知っていて、諦めていたんだ。
『安心しろ』
そして、その声が救ってくれた。
「おい、お前は俺様の親切にも…」
「…思い出した…。」
「何がだ。」
幼い頃一度だけ訪れたここへは、御礼をしに来たんだ、婆ちゃんが作ってくれたおはぎを持って。
爺ちゃんは感謝の言葉を言ってからずっと手を合わせていた。なので、俺もそれを見ながら見よう見まねで手を合わせた。
「あの時、助けてくれたんだな。」
あの時、…俺は湖で一人遊んでいたんだ。
幼い頃は内気で友達も兄弟もいなかった俺は一人で遊ぶしかなくて、いつも湖に行っては眺めてみたりして時間を潰していた。
でもそんな時に目の前に動物…確かウサギだ。ウサギが目の前を通って行ったんだ。
ウサギは止まって俺を見たので俺は追いかけて見た。するとウサギも走って、諦めて止まるとまたウサギは止まって俺を見て。
まるで俺を誘っているみたいだった。
俺は夢中で追いかけた。
すると何かに足を取られて湖に落ちたんだ。
バシャン、ブクブク、
全くのカナヅチだった俺を嘲笑うかのように身体はどんどん沈んで行った。
ひとりで沈んで行く中、とても心細くて寂しかった。助けなんて来ないだろうし自分で浮き上がることも出来ない。
まるで足になにか絡みついているようだった。
『安心しろ』
突然水の泡が集まったみたいに人を象って、白い髪の毛がゆらゆらと揺れて現れたのは黄金色の瞳を持つ綺麗な人だった。
その人は沈んで行く俺の腕を引っ張ってその胸に抱き寄せてくれた。
ああ、よかった。ひとりじゃないんだ。
次の瞬間目に映ったのは焦燥したような爺ちゃんの顔で、必死に何かを叫んでいた。
俺はそのあと爺ちゃんに伝えた、白い髪の毛の黄金色の瞳の人が助けてくれた、と。
爺ちゃんはハッとしたように『そうか』と言って考え込んだ。
少し経ってから俺に向き直って『御礼をしに行かなきゃな』そう言って俺の頭を撫でた。
「ありがとう。
…また、助けてもらったし。」
「…ただの気まぐれだ。
言っただろう、俺様の寝床で死なれたら飯が不味くなる。」
「でも、大天狗は人を喰らうって…。」
「俺はそんな下衆なことはしない。」
「したら俺も食われてるもんな。」
そう笑うと白髪男が黄金色の瞳をギラギラ輝かせて俺を見つめはじめた。
「な、なんだよ…」
「喰ってやろうか。」
お前の肉は柔くて美味そうだ。
持っていた饅頭を葉っぱの上に置いて俺の元に歩み寄る白髪男。
「へ、…や、いらない…」
「……」
そう言って見るが、白髪男は俺の瞳を覗き込むみたいにどんどん俺に近づいて来る。
「…ッ…」
ゆっくりと腕が伸びて来て俺の首を掴む長い指、俺は身体をビクリと揺らして反射的に目を閉じた。
「阿呆が。」
するりと長い指が首筋から横に流れて耳元に滑った。
「いっときの迷いだけで水に飛び込む阿呆がいるか。
もし本当に自害したくなった時には俺様に言え。喰ってやる。」
お前の命はあの時に既に俺様の物なんだ、
それを良く理解しておけ。
耳元から髪の毛に滑った指は水みたいに冷たくて、暖かかった。
なんだか、幼い頃爺ちゃんに撫でてもらった時みたいにポカポカして、凄く気分が良い。
「ふ、…っぅ、…ッ、」
「気張っているからだ、もう少し気を抜いたら楽になるぞ。」
「…っぅ、ぅう…っ」
「…そんなに涙を流すな。」
そう言って俺の眼から溢れる涙をペロリと舐め上げた白髪男。
なんでだろう…人目がないから?
こいつが人じゃないから?
わからない。
…わからないけど、こいつの前でこんなにも精一杯泣いてる。なんでだか、とても安心する…。
「真珠のようだな、お前の涙は。」
「…本当に真珠だったら、今頃金持ちになってるっつの…。」
「そうか。」
「……なあ、なんで俺のこと、助けてくれたんだよ。」
前も、今も。
そう言ってジッと白髪男の目を見つめる。
そういえば、名前とか…ってあるのか…。
「さあな、何と無く。」
「…ふぅん。
なあ、名前…とかって、あるのか…。」
「さあ。」
呼ばれることがあまりないからな。
そう言った白髪男の横顔がまた、寂しく見えた。多分、これだ。
さっきもこういう表情をしていた。それが、とても引っかかったんだ。
なんだろう、この気持ち。
可哀想…なんか違う、嫌悪…はもっと違う。なんだろう、これ。
「なんて、呼んだらいい…?」
そう言ってその顔をジッと見つめると驚いた表情をして、こちらに振り返った。
「好きに呼べばいい、」
「そうじゃなくて、…なんか…。」
「不思議なヤツだな、お前は。」
また、あの冷たいけど暖かい、心地良い手で撫でられる。そうされると、瞼がだんだんと重くなってくる…。このまま、寝てしまいたい。
「何と無く、運命だと思っただけだ。
俺様の感は外れないからな。」
リーン、と鈴の音が響いてからぴちゃぴちゃと水が落ちる音。
すぅっと意識が消えて行った。
目が覚めるとまたあの景色。
今度は爺ちゃんではなく母さんや父さん、親戚の人達だった。
「良かったぁ…起きたわっ」
ぎゅうっと母さんに抱き締められてゲホッと咳が出る。父さんが駆け寄ってきて、「良かった、良かった」と涙を流していた。
「蔦に足を取られて、だなんて。
お母さん恥ずかしいわよっ…まあでも、何も無かったなら良かったけど。」
「ああ、うん。心配かけてごめん。
きっともう、懲りてるよ。」
「本当よ。懲りてもらわなきゃ困るわ。」
あの後父さんが呼んだ救急車が来て、念のため病院に運ばれた。特に何とも無かったのだが、また念のため、入院して色々検査することになってしまった。
…母さん達が家に戻っている時、静かに男の先生が入って来た。
最初は調子はどうか、とかだったがだんだん世間話になって来て、それで言われた…いや、聞かれたのか。
「君くらいの年で、 平均的な体格もあれば早々あんな溺れ方は無さそうなんだけどな。…変だね。」
そうにっこり笑った男の先生に俺も少しギクリとしながら「そうですね」と答えた。
「まあでも、大事がなくて良かったよ。
もう二度と、ここに運ばれないことを願うよ。」
意味、わかるね。
そう言われて俺は俯いた。
だって、恥ずかしかったんだ。
「大丈夫、安心しろ。」
「…っ…!?」
バッと顔を上げると先生が「じゃあ。安静にね。」そう言って病室を出て行ってしまって、俺は窓に顔を背けた。
「ああ、すみません。どうぞ」
先生の声とカラカラと横引きドアを引く音、 それに続いてカツンカツンと硬い靴の音。
「よお。」
俺はゆっくり顔をそちらに向けた。
「俺、まだ何て呼ぶか、考えてないんだけど…。」
俺は天邪鬼みたいな事を言ってみたが多分顔は緩んでたんだと思う。
まだ名前がない男はおかしそうに笑って、ふわり、と白い…蜘蛛の糸みたいな髪が揺れて俺の瞳を引きつけた。
「これからゆっくり考えればいいだろ。」