狂鬼茄子<上>


入り組んだ複雑な路地裏を行くと、まるで気狂いの様に不揃いな石畳が剥き出しとなっていた。
下駄をガランガランと下品に鳴らし、軒下で夜鷹が粗末な着物袖を揺らしている。

還り道などは曼珠沙華が囂々と揺れるように、決して華やかなものではない。

まあるい大きな赤い提灯が不気味に下げられる真横に、生首が下げられているのではないかと錯覚する程、そこには得体の知れぬ者がおられる。血の匂いにも満ちている。化け物の隠れ家であるのか、遊び場であるのか、はたまた街道であるのか。
錆びた簪が道端に落ちており、それを拾おうと黒い格子の向こうから白い手を出している売女。折れ曲がった刀をそのまま腰に差している男は、真っ直ぐな鞘を右手に持って歩いていた。

地獄道は斜め上に伸び、すぐに突き当たりから左右へと道は別れている。
虫が啄む腐った死体を跨ぎ古い石段を降りると、そこには暖簾もかかっていない店の小さな戸が佇んでいた。


店の中は廃れた芝居小屋となっており、暗い桟敷席では男と女、女と女、男と少年が目交っている。何人も居た。さしずめ女郎屋と云った所であろうが、顔に布を巻いた店の主はそういう輩を見ても無言のままである。
視界も無い声も無い主は、花道を通り屋根が傾いた本舞台の奥へと尋ね人を案内した。長い廊下に沿って、両側全てが総籬で埋め尽くされている。その総籬には数々の紙や布が貼ってあるため、部屋の中は全く見えぬのだが、厭らしい音は引っ切り無しに耳へと入って来た。一部の総籬は血まみれであったのだが、鼻につく血の匂いからして、既に死体となっているであろう。小窓から除く臓物にも、目の見えぬ主は気付かない。

赤い漆塗りの廊下を更に進み、鷹が描かれた襖の前に立ち尽くすと、主は指を差す。礼を告げると主は丁寧に黙礼し、暗い帰り道を覚束無い足取りで戻って行った。布の隙間から見えた主の耳の上に、丸い赤い目玉が覗いていた。



刀を抜いて部屋へ入ると、広い部屋の向こうに御簾が在る。並んだ煌びやかな膳を蹴散らし、その御簾を力任せに、大刀で斬り落とした。其れが首であったならば、首は跳ねて外へと旅へ赴くだろう。

「おふざけも大概にしたらどうでしょう」

御簾の奥座敷へ足を踏み入れると、夜通し揺らめく行灯がゆらゆらと足元を照らしていた。
紅い布団の上で眠る青年の頭を撫でながら、軽薄そうな笑みを浮かべた男は、楽しそうに酒を口にしている。転がった酒瓶は二本。紅い布団は濡れていた。

「幕府のお偉い様がこの様ないかがわしい店で何をしてるのか知れると、貴方の立場も危うくなりましょうぞ」

なおも酒を呑み続ける男の肩に、服部は抜刀したままの刀身を軽く置いた。刃は首の動脈を睨んでいる。そのまま服部が手を真横へ滑らせてしまえば、自身の首は身体と離れてしまうというのに、この男はまだ笑い続けている。ふと、狂ったかのように左手より盃を雑に落とすと、右手が布団を掴んだ──否、掴んだのは布団より顔を覗かせた刀の柄でもあった。
(この男、)
服部はとっさに腰の脇差に手を掛けた。鈍色の音を立て、男の一刀を食い止める。

「さすが。斬られるのは痛いもんね、股から裂けた死体は滑稽だしね」
「佐々木殿は油断のならぬお人ですから、」

しんと静まり返った中で、互いに黙殺した。

「なに、殺されにでも来たの」
「斎藤君を引き取りに来たのです。貴方から」

真下へ佐々木の刀を斬り落とすと、黒い羽織を脱ぎ、布団の上へ斃れている斎藤の身体へと優しく掛けた。
涙を流し、横向きになった片頬は吐物にまみれている。冷たい指先は僅かに痙攣していた。

「…彼に何を飲ませました」
「さて、何でしょうねェ」
「そういう惚けた答えは欲していませんが、」
「じゃあ、意識がとんで気狂いしたこいつを何度も犯して遊んじゃったとか、どういうふうに俺を求めてきたとか、そういう答えが欲しいのかなア」

佐々木がはっと顔を上げた瞬間、左胸に衝撃が走ったかと思うと、身体がどう、と真後ろへと倒れ込む。頭を畳へと打ち付けた痛みよりも、既に自身の左腕に脇差がのめり込んでいる有様に首を傾げた。皮膚が弾けたのか、血はあっという間に流れてくる。
服部は左胸を踏み付けたまま、無表情で佐々木を見下ろす。その瞳に感情は無く、脇差の柄を力強く握るなり、もう一度、刺した傷口へと刃を捻じ込んだ。しかし、全身を貫くような痛みに、佐々木は顔色一つ変えずに其の一連の行為を見ているのだ。やれやれ、眉を下げてそう呟いた。

「座敷上がる前に履物をちゃあんと脱ぎなさいって習わなかったの、あんたに踏まれてるとこ、泥だらけだよ。」
「下衆に教養なんか乞わねえだろう」
「あらあら、もう本性を剥き出しちゃうんだ、ねえ──」

どすん、と服部の右太腿に短刀が突き刺さる。
途端、びゅ、と刀が頬を翳めた。寸での所で身を引き、転がる様に白刃の餌食から逃げると、素早く体制を整え八相に構えた。
右足の痛みを忘れているのか、佐々木が刺した短刀は、右足に刺さったままである。白足袋が赤足袋へと化けたのである。

「人を踏み付ける行儀の悪いあんよは御仕置きですよお」

口元で笑って、服部の脇差を片手に一歩、二歩、服部へと歩み寄る。佐々木の呼吸が読めない、殺気も、無い。ぞくりと背筋に冷や汗が流れた。

佐々木が身を沈めたと同時に服部も仕掛けるが、気配がまるでない。脇差での一突きを刀の鎬で受けると、あまりの力に服部は体勢を崩していた。
ぺろりと上唇を舐め、佐々木は自身を殺そうとする刀、小乱刃文を切っ先で辿ると、恐れもせず手を伸ばし、服部の右太腿へと刺した短刀を握る。手前へと引いた。

肉を裂き、血しぶきが飛び散った。


「もうその足は使い物にならないね、可哀想。こっから帰るのが精一杯でしょ、嗚呼可哀想可哀想。斎藤君を連れて帰れやしない、だってお前はここで死ぬんだもの」


裂かれた袴から覗く傷口より、大量の血が溢れては度々足枷を作る。右手を下ろすと、刀の横手まで血に濡れていた。

「気に入らねェ、」

服部は嘲笑した。佐々木の目に映るのは真っ先に飛んでくる刃の光である。
闇へと吸い込まれるよう佐々木の身体はひらりと動いた。投げられた刀は奥座敷の壁へと突き刺さっている。すると、疾風の如く間合いへと詰め込まれ、短刀を握られた。
(これは、中々…)
身体が左へと傾く刹那、佐々木は壁に刺さった刀の柄を掴み、服部の胴を目掛けて刃を薙いだ。赤い土壁が崩れ落ちる前に、終わりを告げる筈であったのだが、

「小柄も懐に忍ばせているとはね、」
「死ぬために此処に来たわけではありませんから。」

しかしながら受けた刀の衝撃に、服部が握る小柄は無残にも折れ曲がっていた。柄の雀と梅が無常無情と鳴いている。
佐々木の持つ血まみれの短刀は、服部の左掌の中に在った。力強くも、その切っ先は自身の首元へあてがわれている。このように刀身を素手で握っておきながらも、まあ指一本も落ちぬものだと佐々木は感銘の溜息を吐いた。

「いいよ、その短刀で俺の首を刺しても。」
「何故──、」
「だってぇ、その短刀は一君のだもん。俺さ、一君に殺されるんだったらいいよ、一君も俺に殺されたいって言ってた、だから殺してあげようと口移しで毒を飲ませてあげた」
「嘘を吐くな」
「ふふ、本当。ね、お前は俺に殺されたい」
「遠慮しておく、」
「そうかア、ならば仕方あるまいなア」

佐々木は緩やかに言って、足元へと刀を落とした。
向かい合って立ち尽くす服部の爪先には、血溜りが出来ている。そこに懐紙を落とすと、一瞬で椿に変化する、これは狐も喜ぶまい。
その血は曲がりくねった道をつくり、やがて蠢く何かに殺された。

身動き一つもせず横たわる斎藤の頬に触れると、その身体を服部は優しく抱き上げる。
内股を流るる白濁の液体を気にする事なく、服部は斎藤の白い脚に頬擦りをした。

「あんたから流れる血が、斎藤君の血みたいになってる。あんたが斎藤君殺したみたいになってるよ、」
「それはそれは、とんだ話で御座います。」
「…おかしいなァ、その深手を負って歩くのは普通無理なんだけど」
「佐々木殿は間違っておりませんよ、貴方の剣捌きは息を呑むものがある。ちゃんと、斬り合いに命を取りに来てる。戯言でも何でもない。」
「気が狂ってるのはあんたの方かもね、」
「愛する子のためなら、痛みなど惜しみません。」
「そう…。」
「それでは、もう会う事もありませんでしょうから」

軽く会釈をすると、斎藤を抱きかかえたまま服部は背を向けた。道標の様に、ぽたぽたと血が滴っては暗闇に蹲っている。
(滑稽だ。)

「ねエ、あんた多分、“愛する子”に殺されるんだと思う」

短刀の血曇りと脂を袖で拭いながら、佐々木は告げた。
服部は、黙った。

「これ、俺の勘だよ」
「…まさか、貴方の勘は当たりませぬ。心中すら出来なかった貴方に、私の愛する子は奪えませぬゆえ」

こういうものは、単に断片的では在らず。

「大した自信だね、お前。でもその子はお前のものじゃなくて、俺のものだよ」
「肝に銘じておきます。」

百目蝋燭の火が消えた。
錯乱とは何か、頬肘をついて考える。
(斎藤君、短刀忘れていってるよぉ)
古びた窓を開けると、路上を歩く人影など一人も見当たらなかった。

曼荼羅華が溶けた酒瓶を、布団へ放つ。
「雨降りそう。頭痛ぇ、」
壁へ凭れ掛り力を抜くと、佐々木は紅い笄をくるくると回しながら、上機嫌に唄を口ずさんだ。


狂鬼茄子<下>











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