近頃なまえの様子がおかしい。
具体的にどこが、と聞かれても答えられないが、何か変なのだ。
強いて言うならそう、機嫌が悪い。
「なまえ…」
「何?」
「…いや、すまない。」
顔には現れていないものの、その態度から明らかに変だとわかってしまう。
初めのうちはあまり話しかけない方がいいだろうと、真木はなまえに配慮していた。
だが彼女の機嫌は悪くなる一方だった。
一体何故あんなにも機嫌が悪いのか。
逆にこちらが怒りたくもなるのだが、このままでは前に進めないと真木は理由を聞いてみることにした。
「なまえ。」
「…何?」
「…何をそんなに苛々している。」
それを聞いた瞬間、彼女は顔をしかめた。
ついに表情にまで現れたのだ。
「…別に、何でもないわ。」
しかし態度とは打って変わって、吐き出された言葉にそれを理由付けるものはない。
真木も彼女の答えに眉間を寄せた。
「その言葉を信じると思うのか?黙っていてはわからん、話せ。」
苛々とした様子できつい口調の真木に、なまえもさらに苛立った。
「何でもないって言ってるでしょ。放っておいて。」
目も合わせず踵を返し去ろうとするなまえ。
まだ話は終わっていないのだと、真木はとっさになまえの腕を掴んだ。
だが、
「触らないで!」
乾いた音が響く。
なまえが真木の頬を叩いたのだ。
「あ……」
突然のことに驚いた真木は、そのまま動かない。
「…っ……」
様々な感情が入り交じりその場にいられなくなったなまえは、瞬間移動で消えてしまった。
それが、今朝の出来事だ。
あのあと、やっと動けるようになった真木は自室に戻り、一体何故あのような態度をとられたのかと考えていた。
どう考えても彼女が悪いが、あそこまで怒るのには何か理由があるのだろうか。
「……………」
叩かれた頬にそっと触れる。
その時、そういえば毎年4月初めのなまえはどこか暗い雰囲気を持っていたことに気がついた。
しかし、それもこのくらいの時期にはもとに戻っていたはずだ。
何かあるのか、真木は記憶を辿る。
そして一度だけこの時期にもそれが直らなかったことがあったのを思い出した。
だんだんと暗くなっていったなまえは、確か病気にかかってしまったのだったか。
あのときはお互い話さなかったため見舞いなどはしなかったが、随分と心配した。
しかしその病気も治り、なまえはだんだんもとの彼女に戻っていったはずだ。
夏頃には完全復帰していただろう。
「何が……」
眉間に皺を寄せ、今回とその時に何が起きたのか考える。
「…っ……!」
わかった、何故なまえの機嫌が悪いのか。
もしあれが理由ならば、完全に悪いのは自分だ。
その理由が分かった途端、いてもたってもいられなくなった真木は、自室を飛び出した。
理由があれならば、今彼女はあの場所にいるだろうと確信して。
***
「…はぁ……」
アジトの庭にある大きな木の下で、なまえは盛大な溜め息をついた。
やってしまった。
気がつけば叩いてしまっていた。
何もあそこまでしなくても、と今さらながら後悔する。
しかし、この事に関しては譲れないのだ。
毎年一緒に花見に行く。
子供の頃、何気なく彼がした約束だったがすごく嬉しかったのだ。
それが、せっかく想いが通じたのに行ってくれないなんて。
「子供っぽすぎて嫌になるわね…」
小さく呟いて自嘲気味に笑い、なまえは目の前の木を見上げた。
既に散ってしまった桜。
憂いだ表情でそれを見つめていると、後ろで土を踏む音がした。
振り返りその存在を確認すれば、そこに立っていたのは真木本人。
なまえを見て眉根を寄せている。
さっきは叩いてしまって悪かった、と謝らなければならないのに、口から謝罪の言葉が出てこない。
素直になれない自分に苛つき、なまえは顔をしかめた。
「なまえ…」
「………」
彼の目を見ることもできず、なまえは黙っている。
真木はそんな彼女を見て溜め息をつき、少しずつ近付いた。
そして自身の髪である炭素繊維を伸ばし、なまえを捕らえる。
「っ、何…!」
「ちょっと来てくれ。」
「な…」
短くそれだけ伝えた真木は、捕らえたなまえを横抱きにし、炭素繊維を離す。
そしてそれを翼の形に変え、勢いよく飛び立った。
「っ、ちょっと、離しなさいよ!」
抱えられたなまえは、何の説明もなくこのようなことをした真木に抵抗する。
支えるのが困難になった真木は、翼になっていない髪でなまえの腕を自分の首に回させた。
「少し怖いかもしれんが、我慢してくれ。」
そう言ってそっと目も覆う。
これから行くところを、敢えて教えないためだ。
「…っ……」
何も見えなくなり、なまえの体は恐怖を感じ取って意思とは関係なく震える。
真木は大丈夫だと言うように、彼女を前から抱く形に動かせた。
足を真木の体に絡ませ、彼は抱き締める腕にそっと力を込める。
その行為に少し安堵したなまえは、抵抗を弱めた。
どのくらいこうしているのだろう。
視界を閉ざされ、ただ抱かれているなまえにはそれがわからない。
だが、彼のおかげで落ちる心配をしていないのは確かだった。
そしていくらか冷静になりつつある自身の心に、ある感情が生まれる。
彼は今何を思っているのだろう。
許し難いことだが、もし彼が昔の約束を忘れているならば、なまえが苛々していた理由もわからないはずだ。
何もしていないと思い込んでいるのに、いきなり頬を叩いた自分を、彼はどんな思いで抱いているのか。
途端に不安になり出した。
彼の表情が見えないのが怖い、どんな表情でもいいから見たい。
そんなことを言う資格があるのかどうかわからないが。
「司郎…」
おそらく彼の顔があるであろう方を向き、話しかける。
出てきたのは酷く震えた声だった。
真木は自分の腕の中でまた少し震え出した彼女をそっと見やる。
「…顔、見たい……っ…」
今にも泣き出しそうなほど震えた声で小さく紡がれた言葉に目を見張った。
景色だけは見えないようにしておき、なまえの目を覆っている炭素繊維を緩めてそっと彼女の目を見る。
彼と目の合ったなまえは、そこから感情を読み取ろうとした。
だがすぐそばにある彼の頬が片側だけ赤くなっているのを見て、改めて自分のしてしまったことに後悔が生まれる。
「司郎…」
「…何だ。」
「…ほっぺ、叩いてごめんなさい……」
罪悪感からか、戸惑ったような表情のなまえ。
そんな彼女を真木は真剣な眼差しで見つめる。
一度目を伏せた彼は、再度開いた目でしっかりとなまえを見て、口を開いた。
「…いや、俺の方こそすまなかった。」
その瞬間彼の言葉になまえは驚いたように目を見開く。
「忘れていたわけではない。だがなかなか予定も合わなかったし、なまえが覚えているとも思ってなかった……」
真木が覚えていてくれたことがわかり、心に暖かいものが広がった気がする。
「っ、覚えてるに、決まってるじゃない……」
他でもない真木との約束、そんな大事なものを忘れるはずなどない。
少し詰まりながらそう返すと、真木は微かに笑った。
「…あぁ、そうだな。」
なまえを抱いていた腕を片方はずし、真木はそっと頬に触れる。
その仕草に少しドキリとした。
「ねぇ、何処に行くつもりなの?」
僅かに赤くなった頬を隠す術がないなまえは、気になっていたことを聞き、落ち着こうとする。
すると、また炭素繊維で目を塞がれ、今よりもきつく抱き締められた。
「…着けばわかる。」
***
『花見に行こうか。』
昔、たった一言兵部がそう言ったため、みんなで花見に行った。
ちょうど満開の頃だ、幼い子供たちは嬉しさではしゃいでいる。
そんな中、真木はその光景を見ていた。
風に舞う花びらと、走り回っている弟たち。
そういえば、なまえは何処にいるのだろうか。
自由行動のため各々が好きな場所で過ごしているが、ここから彼女の姿は見えない。
『…………』
真木は凭れていた木から離れ、なまえを探しに行った。
広い場所で見つけるのは難しいかもしれないと思ったが、彼女は意外とすぐに見つかった。
先程真木がいた場所からは見えなかったが、すぐ近くで1本の桜の樹を見上げていたのだ。
しばらく離れた場所から見ていたが、やがて真木はゆっくりとなまえに近付く。
そして隣に並んで同じように桜を見上げた。
『っ、真木ちゃん…!』
ふと傍に誰かの気配がして横を見たなまえは、隣に立っている人物に驚く。
『…………』
だが真木は、そんな彼女に何か声をかけるでもなくただ黙って桜を見上げていた。
もしかしたら、余裕がなかったのかもしれない。
彼女と話す余裕が。
それはなまえも同じで、結局そのあとは何も話さず黙って桜を見上げていた。
時々真木の手が少し動いてなまえの手に触れようとする。
だがその勇気が出ず、結局もとの位置に戻ってしまっていた。
なまえも時々桜から目を逸らし視線を真木に向けるが、本人が気づく前に戻してしまう。
お互いが相手意識しながらも、何もできないで何時間か過ぎた頃、遠くから兵部が皆を呼ぶのが聞こえた。
『…帰ろっか。』
やっと声を出したと思えば、それはもうこの時間の終わりを告げている。
それでも一緒にいられて楽しかったと思いながら踵を返すと、歩を進めたところで後ろから呼び止められた。
『なまえ!』
今そこにいるのは真木しかいない。
彼に呼ばれたことにより高鳴る胸をなんとか抑えて振り返る。
『っ、毎年、来ような…!』
頬を赤くして必死に紡がれた言葉。
なまえも同じように赤くなっていたが、少し距離があったためお互い気付かなかった。
真木は彼女のもとへ駆けてきて、隣に並ぶ。
2人は先程と同じように、相手を見ることなく無言のまま並んで兵部のもとへと帰った。
***
その後、パンドラ全員でだったが一応毎年花見に行っていた。
行けなかったのは季節外れの雨で花見どころではなかったあの年と、今回。
本当は、約束などといえるかどうかわからないほどの言葉だった。
だがそれでも、なまえは本当に嬉しかったしずっとあのことを覚えている。
今思えばあの頃は既に真木も自分のことが好きだったのだなと、彼女は昔を思い出して小さく笑った。
「着いたぞ。」
頭上から低く心地よい声が聞こえる。
抱かれていた体はくるりと回され、そっと地面に降ろされた。
それでもまだ目隠しは外してもらえず不安でいると、ぽんと肩に手が置かれる。
「なまえ…」
甘さを含んだ柔らかな声で名を呼ばれると、それと同時にゆっくりと目隠しを外された。
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