「あれ、今日は任務じゃなかった?」


廊下で見かけた見慣れた後ろ姿に、なまえは声をかけた。


「少佐がな…、働きすぎだからと無理矢理任務から外したんだ。」


足を止めて振り返り、そう答えたのは真木。

毎日仕事ばかりしている彼は、することがなくアジト内をうろうろしていたのだ。


「よかったじゃない。」

「まったく、そもそも誰のせいでこんなに仕事が増えていると…」


眉根を寄せて少し愚痴をこぼす彼になまえは苦笑する。


「じゃあ今日の予定は?」

「することもないし、とりあえずリビングにでも行こうと思っていたんだが…」

「奇遇ね。私もリビングに行くところだったの。」


なまえがそう言えば、真木は特に気にした様子もなく、そうか、と返した。

そのあとに会話はなく、2人は黙って同じ場所を目指す。

真木の後ろを歩くなまえは、彼を見て少し頬を綻ばせた。


自分の思い人である真木――


付き合っているわけではなく、なまえが一方的に好きなだけの何でもない関係。

ただの同僚だ。

しかし彼に出会って数日で彼に恋をしたなまえは、いつかはその関係を変えたいと願っている。

今まではただ姿が見られるだけで幸せだったが、最近はそう思うようになってきたのだ。

だがそれと同時に、想いを告げてうまくいかなければ今よりも関係が悪くなるという恐怖もある。

告げるに告げられず、彼を見てドキドキする日々がもう何年続いているのだろうか。

数える気力もなくすほど長い年月なのだと、彼女は一人苦笑した。


「…どうかしたか?」

「いいえ。」


なまえの様子に気付いた真木が彼女に問い掛ける。

しかし彼女は平然と、何もないのだと口にする。

一度訝しげな視線を送ったが、先程同様特に気にせず彼は歩き続けた。





「あら珍しい。」


リビングに入った彼らに声をかけたのは紅葉だった。

その言葉は真木がこの時間帯にここへ来たことを指しているのだろう。

なまえは彼らの会話に参加する必要はないと判断し、備え付けのキッチンへと移動した。

それでも今日は人が少ないせいで彼らの会話は聞こえる。


「少佐に仕事をなくされてな…」

「あぁ、なるほどね。」


短い言葉のやり取りだが、彼女には真木の言ったことが理解できたようだ。


彼らは兵部に救われる前から一緒にいる。

一方なまえはパンドラができた少しあとで兵部に救われ、真木と出会った。

この差を恨んだことなどないし、嫉妬したこともない。

だが彼女は、紅葉が少し羨ましかった。

その感情を表に出したことはないが。


「じゃあ私は行くわ。」

「あぁ。」


彼女は短く言って出ていった。


湯を沸かしながらなまえは彼らのやり取りを聞いた。

そのまま色々と考えを巡らせる。

すると背後から声がかけられた。


「沸騰してるぞ。」

「…っ……」


声をかけたのは、先程までリビングの入り口近くで話をしていた真木だった。


「ごめんなさい、ぼーっとしてたわ。」


一瞬ビクリとしたが、すぐにいつもの自分に戻って何事もなかったかのように火を止める。

なまえはカップに湯を注ぎ珈琲を淹れた。


「俺の分も淹れてもらえるか?」

「わかった。」


もう1つカップを取り出し、珈琲を淹れる。


「はい。」


彼のために淹れたものをそこに残し、なまえは自分のカップだけを持って再びリビングへと足を運んだ。


今ここにいるのはなまえも含めて僅か5人。

今日は一体どうしたのだろうか。

いつもならばこの時間帯のここはもっと人で賑わっているはずだ。

不思議に思いながら珈琲を啜ると、向かい側の椅子に真木が座った。

会話などするはずもなく、彼ら以外にここにいる者たちが見ているテレビの音だけが聞こえる。

しかし飽きたのか、テレビを見ていた3人もそれの電源を切り、リビングを出ていった。


完全に無音になった空間。

なまえは自分の心臓がとくんと跳ねたのを感じた。

真木と2人きり、こんなチャンスは滅多に無い。

ならば、少し勇気を出して言ってみようか。


「ねぇ真木ちゃん。」
「なまえ。」


だが、なまえが話し掛けたのと同時に、真木も話し掛けた。


「どうした?」

「真木ちゃんこそ、どうしたの?」

「…俺のは大したことじゃない。お前は?」


どうやら真木は言わないようだ。

どうしよう。

ここで言ってしまえばあとには引けなくなる。

しかし、言わないままの状態も辛いのだ。

意を決し、言葉を紡ぎ出す。


「話があるんだけど、今夜空いてる?」

「空いているが…今では駄目なのか?」

「大事な話だから、ここでは…」


今はいないにしても、すぐに人が来るかもしれない。

話の内容はわからないが、聞かれてはまずいものなのだろうと真木は理解したようだ。


「わかった。」

「じゃあ夜、真木ちゃんの部屋に行かせてもらうわ。」

「あぁ。」



約束し、なまえは自分の珈琲を一口飲む。

そして真木に尋ねた。


「真木ちゃんは?」

「さっきも言っただろう。大したことじゃない。」

「…そう?じゃあまたあとで。」


一旦別れを告げ、残りの珈琲を一気に飲み干し席を立つ。

そしてカップを流しに持ってゆき、洗い終えると、彼女はそそくさとリビングを出ていった。

その姿を真木は見つめる。

そして小さく息をついて自分の珈琲を啜った。




自室に戻ってから、なまえは同じことばかり考えていた。

約束してしまった、もうあとには引けない。

しかしこのまま黙って何も起こさないのは嫌だった。

その2つの思いが自分の中で葛藤する。


「やっぱり早すぎた…?」


そう思ったが、その考えはすぐに否定された。

自分も真木も、もういい年齢だ。

今のところ誰かと付き合っているというのは聞いたことはないが、彼に好きな人がいても何らおかしくはない。

彼が誰かと結ばれたからという理由で、何も言えずに想いを断ち切ることだけはしたくなかった。

だから、今回の選択は正しかったはず。


「でもなぁ……」


だが結局、問題なのは彼がどんな返事をするかなのだ。

こればかりはどうすることもできないが、一番重要なこと。

自分が彼を好きだという素振りを見せたことなどなければ、彼のそういう素振りも見たことがない。

そういったアピールを嫌ってきたのは、紛れもなくなまえ自身だった。


「…考えても何も変わらないわ……」


大丈夫、優しい彼のことだから振ったとしてもその後無視したりはしないだろう。

少し早いが、なまえは決心して真木の部屋へと向かった。





だが実際に来てみると決心が鈍るのは当然のこと。

なまえは先程からずっとドアをノックしようとしてはやめ、左右を行き来するという動作を繰り返している。

考えてみれば、この部屋で告白して、振られてしまえばその場の気まずさは半端ないものになるだろう。

場所を外の何処かにすればよかったとなまえは溜め息をつく。

そろそろノックすべきかと、動きを止めて扉を見つめた。

しかしまだ決心がつかない。

そんな時、不意に扉が内側に開いた。


「来ていたなら入ればいいだろう。」

「…っ……」


そう言ったのはもちろん部屋の主。

尤もな話だ。

真木に促され、なまえは彼の部屋へと足を踏み入れた。

大事な話だとは聞いているが、真木はその内容を一切知らない。

なまえも、言いづらそうに俯いたまま黙っている。

しかし言わなければならない。

彼女は閉じていた口を開いた。


「真木ちゃん。」


緊張で震えた声が出るかと思っていたが、出てきたのはいつもと変わらぬしっかりとした声。

幼い頃から彼に気持ちを悟られないようにしてきたがために、こんなに緊張していても表には全然出ない。

なまえは過去の自分を恨んだ。

真木の方を見れば、真剣に彼女の話を聞こうと黙って彼女を見ている。


どう言えば一番いいのだろうか。

それは考えてこなかった。

だが早く伝えなければ、そんな思いが駆け巡る。

なまえは一度深呼吸し、何も考えることなく想いを言葉にした。


「好きだよ、真木ちゃん。」


口から出てきたのはたったそれだけだった。

ちゃんと考えながら言うべきだったと後悔する。

気持ちを隠すことに慣れすぎて、こんな大事な台詞も冷めた口調で言ってしまった。

この言葉にか、態度にか、真木も驚き目を見開いている。

だがすぐに冷静さを取り戻し、目を伏せた。


「……笑えない冗談だ。」

「……っ………」


そう言った彼の表情は、本当に笑みを浮かべておらず、少し怒っているようにも見えた。


冗談なのだと、本気ではないのだと軽くあしらわれた。

それどころか呆れたという表情を隠しもせず、むしろ軽蔑の色が見てとれる。

なまえは絶望したような表情で彼を見ていた。


「大事な話だというから真剣に聞いていれば……、なまえ?」


彼女の表情に気付いたのか、真木は話すのを中断して彼女に呼び掛ける。


「冗談なんかじゃないわ……」


小さく、震えた声。

しかし2人しかいないこの空間では、その言葉ははっきりと聞こえた。


「なまえ……、」

「冗談なわけないでしょう!?」


今度は逆に、この静かな部屋には大きすぎる声だった。

なまえは真木に詰め寄り、彼をまっすぐ見つめる。

その彼女の瞳は、縋るようなとても悲しげなものだった。

隠していたものが一度出てしまえば、もう抑えることはできない。

中にあった不安も緊張も一気に溢れ、彼を見たままなまえはまた震えた声で言葉を紡ぎ出す。


「ずっと、ずっと好きだった…」

「……っ………」


真木はまた目を見開き、目の前の彼女を見た。


「気付かれないようにしながら、それでもずっと好きだった……」


先程の言い方とはまるで違う、感情の籠った必死の告白。


「なまえ、もう…」


震えながら話すなまえに、真木はもう充分だと制止の声をかける。

しかし彼女は構わず続けた。


「隠すことに慣れて…気持ちの籠った言葉で言えなかったけど……」


彼女が自分の手を強く握った。


「…今でも、大好き……」


愛しさの溢れた掠れた声で紡がれたその言葉を聞き、真木はそっと目を伏せた。







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