ココは
ココは脳内で船内図を再現していた。どのルートでどう通ったら最短で自室に辿り着くのかを考えつつ階段を登る。
上のフロアへ足を踏み入れた時、コンシェルジュが何かありましたか。と、2人の側へやって来た。品の良い制服姿の彼にココは短くクラルの状況を告げ、自身の部屋に、大した事は無いかもしれないが念の為に医師を呼んで欲しいと言いつける。
クラルはその間、口を挟めなかった。何かを言おうとすればその瞬間にココが言葉をかぶせて、閉口せざるえなくなる。
それでも、ココの口から自室の部屋番号が飛び出せば、大人しくなんてしていられない。
「あの、」
コンシェルジュは、直ぐに伺わせます。と、ココの要望と部屋番号をメモに書き付けて踵を返して行く。再び、ココの足が進み始める。
「ココさん」
頭の中で疑問が過ぎる。お部屋番号を? 何故? どうして……? ぐるぐると、忙しなく、少し考えれば容易く分かることなのに疑問視せずにはいられない。
これがもし普段の延長だったのなら、まあ友人と赴いた旅で彼女を蔑ろにして恋人の部屋なんて良心が咎めるけれど、でも、嬉しいと思うだろう。
普段であれば、何事も無かったのなら。ただの邂逅だったなら。
「あの、私、本当に平気です。ほら、腫れてはいないでしょう?」
景色が過ぎて行く。頬に微かな風が当たり、唇にほつれ髪が触れる。
ココの歩行はいつもより早かった。走っている訳でもないのに、前から来る人が何事かと2人に視線を寄越した時には既に、ココは彼等を通り過ぎている。
一歩が大きく、長身に見合った長い足を俊敏に捌くその動きは平均の歩行速度よりもうんと速い。クラルは風の当りを感じたまま、ココの横顔に語りかけた。
「ですから歩けますし、お医者様も必要ありません」
今の彼女には羞らいに顔を隠す暇も、ある日の様にココの普段の目線の高さに驚嘆する余裕も、まして彼の肩口や首元に腕を回す勇気も無い。
「どうせ直ぐに治癒します。足を運んで頂くだけご迷惑になります」
それでも彼の、凹凸のしっかりとした綺麗なラインは緩まない。
クラルは気付いていた。クラルを省みない強引な行動、微笑まない口元、クラルは、分かっている。−−ココさん、お怒りになっていらっしゃる……とても。
「……私の身体が丈夫なのは、ご存知でしょう?」
それでも何時もなら、何かしらの小言を彼は彼女に言っていた。耳が痛い事も言われたし、聞いてて恥ずかしくなる事を厳しい顔で言い聞かせられた事もあってつまり、こんなココの様子、クラルは初めてだった。
端正な横顔は険しいままぴくりともしない。言葉を口にする事はおろか、クラルを、見ようともしない。
「ココさん……」
次第にクラルは、胸の奥にちくちくとした痛みが篭り出すのを感じた。ぐっと結んだ口元の奥もむず痒くなり、言葉を失いかける。
「……隠して、すみません」
でも最後にこれだけは、と、ささめごとの様に、口にした。
ココの顳かみが、それには僅かに反応を示す。クラルの膝裏と背中を支える腕により力が篭り、彼女の体のその胸にくっ付けてきたからクラルの頬は必然と、ココのしっかりとした肩口に、寄り添った。
「いや、僕も……大人気なかった」
ココの足が一瞬だけ止まる。彼女の鼻先が彼のコートの生地に触れる。きちんと仕立てられた衣装の香りのその奥から、慣れ親しんだココの匂いが昇る。ドレスから剥き出されている背中や、膝の裏に回された広い掌の体温も圧も、「すまない」そう、囁く声も。
額の生え際に、柔らかい唇がそっと押し当てられる。すぐ、離れたその温度を追いかけてクラルは彼を見上げた。
「手当だけでも、させてくれないかな?」
痛みを隠した優しい顔が、陰りの中でクラルを見下ろしていた。
不謹慎な事。と、彼女は心の中で自答する。通り過ぎる人が視線を寄越す気配がする。誰かが、ココの名前と肩書きを口にした声が耳に滑り込む。今、彼に取ってとても良くない状況になっている。と、彼女は分かっていたのに、女心がクラルの意思を挫こうとする。
クラルは、ただ何も言えずその場所で、俯いた。それを、ココは頷きと捉えて、再び歩き出した。
廊下を進んで行く。やがてエレベーターホールに行き着く。
ボーイが2人の状態に一瞬だけ表情を崩したが、ココの「上を押してくれ」その声で、畏まりました。と、機体を呼んだ。直ぐにランプが点灯し、開き切ると同時にその身を滑り込ませる。パネルボタンを押す時だけ、あ。と、ココは一声だけ上げた。
しまった。キーが必然だった。ココ達の取った部屋はクラルやマリア程と行かなくとも上等な部類の部屋だった。
専用のエレベーターにカードタイプのキーを翳せばパネルが点灯する。普通に押したのではブザーが鳴るだけの代物で、同じフロアの人でないと行き来が出来ない仕組みに成っている。
「ちょっと座ってて」
抱き上げたときと同じ自然さで、ココは機内の奥に備え付けてあった長椅子にクラルを着座させた。その促し方に無理は無くて、クラルは足の痛みを感じる事もなく其処に腰を下ろす。作りのしっかりとしたカウチは座り心地も申し分無い。
彼女を座らせると彼は直に、背を向けてパネルへと近づいた。
クラルは戸惑いを隠さないままその場から、ココを見上げた。背の高いココは座ってしまえばより首を反らさなければいけなくて、その容貌さえ強靭な肉体で隠れてしまいそうだ。本当に大きな方。と、思うクラルは同時に、気付いた。
エレベーターの扉が開いている。
ボーイが、扉を押さえている。ココの行動を見て今にも手を離す所だけれど、クラルはそれより先に視線へと移した。
車椅子利用者専用のパネルがあった。OPENボタンもある。
ココがボトムスのポケットから鍵を取り出し、パネル下のリーダーに翳す。ピッと音を出して該当階数が点灯する。
そのエレベーターで行ける一番上の階だった。ボーイの手が離れて扉の前で一礼をする。
クラルは、胸が騒めいた。ココさんから距離を置くなら今が最後のチャンスですよ。と、内側から意思が囁く。
パネルを押して、扉を開かせて、そのまま−−また、ココさんを蔑ろにするの? 自分の、平穏の為に? 助けて下さったのに? 守って、下さったのに?
そんな不誠実な事、出来るわけ、
「OPENボタンなら、こっちにも有る」
ココの声に、背が粟立った。
振り返ったココと、視線が絡む。眉元だけは厳しい皺を持っているのに、その燐光は、置き去りにされる子供の様な哀愁を滲ませていた。
クラルの頬の横で、耳に下がるハイジュエリーのイヤリングが重く振れる。
エレベーターの扉が閉まっていく。静かに、するすると、緞帳を引く様に密室を構築する。
「すまない」
ココの声が、機体に響く。低く落ち着いたドラマティコテノールはその音域だけで、クラルの意識を攫う。
「君がまた、逃げ出しそうに感じた」
クラルは、背中を壁に預けた。ひやりとした硬い材質に皮膚がぺたんとくっつく。熱を持たない無機質さに、ああ、と、思い出す。そうだわ、私、クロークにコートを預けたままだわ。
「ここの機体は、欧州モデルかな。CLOSEボタンが無い」
機体が、ぐんと動き出す。
「そう、かも知れません」
扉の上にあるレトロな階数表示盤が、緩く数字を上げて行く。
クラルへと踵を返したココが、手早くジャケットを脱いだ。長椅子で困惑のまま彼を見上げるクラルへと、それを差し出す。
「……無いよりはましだと思うから」
「……あの」
「テール、煩わしいかもしれないが、着ててくれ」
クラルは、ですが、と遠慮を見せた。それにココは、肩を落とす。
まったくこの子は。とは言わないにしてもそれに倣った表情を覗かせてクラルへ一歩近づく。
「良いから」
その場所で片膝を付き、半ば強引にその剥き出しの肩へコートを羽織らせた。
前が止めれれば良かったが、構造上そう出来ない。ココはその黒い襟を正す様に手を下へと辿る。自然、視線もその場所を見る。つまりクラルの、胸元。
「………」
ホルターネックの立ち襟が首のラインに沿ってはいるが、鎖骨の窪みから臍の真下まで、胸は隠せどもVの字がざっくりと切れ込まれている。
丁度デコルテの辺りに大振りのネックレスがあるため胸の間の柔らかさも見えないが、形の良い下の乳房のラインは少し、覗いていた。なだらかで薄い腹部も、形の綺麗な臍の窪みも、陽を知らない肌の仄かさも。
ココは、一度目を瞑り、両手で握り込んでいたテールの襟元を閉じた。言葉にすれば大層だが時間にして1秒もない注目だった。そして、
「ココさん、」
そのまま、クラルの半身を抱きしめた。
腕の中の体が僅かに強張ったのを胸や腕の感触で知る。驚いたのか、反射的な物なのか、眼を閉じているココには分からない。ただ、視覚を遮断した事で得る情報に身を寄せる。
か細い戸惑いの声が耳に触れる。息を吸うと、華やかなフレグランスの奥から良く知るクラルの皮膚の香りがしている。ああ、クラル、クラルだ。本当に、居たんだ。今更とも思えてしまう実感を、彼は噛みしめる。
拍動を伝える暖かな体温。少し柔らかい肌。山羊のミルクを思わせる甘い香り。掌で包めそうな小さな頭。滑らかな髪。
うなじの窪みから指先を伝わせて抱え込む。額が壁に着くのも構わず、ココは彼女の耳に頬をすり寄せた。
「今日の君は凄くセクシーで、驚いた」
胸に触れる肩が、少し跳ねる。
「だが、良く似合っている。綺麗だ」
「……ありがとうございます」
「ドレスのデザイン、変えたのかい?」
そのシルエットから、今日のクラルの衣装はいつかにエスコートをした企業晩餐会の物だとココは気付いた。けれど、パーティ会場でも感じたが、フロントは確か閉じられていた。
切り込みはあったけど、確か、ブローチで立ち襟の左右を留めていたから、こんな大胆さはなかった。
「はい……。少し」
愛らしい吐息が、言葉の後に溢れてココの首元をくすぐってくる。
「……そうか」
こそばゆさに、ふっと笑う。
「正直、目のやり場に困ったな」
クラルが口の中で言葉をまごつかせたのが分かった。もしかしたら、ひと呼吸は溢したかもしれない。
その戸惑いの様相に、ココは、強い衝動を抱いてしまった。
−−キスしたい。
今度は額じゃなくて、クラルの唇に唇をくっつけたい。小さくて柔らかい口元だけに留まらない、溢れる吐息をも堪能できる、許し合った関係だけのキスが、したい。
クラル。
名前を囁く代わりに頭を包んでいた手の指先で、頬の輪郭をなぞった。イヤリングを引っかけないよう注意深く、指を這わせてその親指の先で下唇を、そっと撫でる。柔らかく湿った呼気が指先に当たってココは、頬に頬を充てた。滑らせる様に唇の先で頬を撫でる。
もし許しが得られたのならクラルも顔を動かして、ふふっと軽やかに笑う唇を貪欲な男の唇に合わせてくれる。腰を抱き寄せればいつもの様に。最後に出会った、日の延長のまま。それなのに今日は、
「いけません……」
クラルはか細く拒絶した。
顔がそっぽを向き、手で、ココの胸を押す。ココは思った。ああ――やっぱ、臍を曲げてるのか。彼女から醸されている波長を改めて読み、彼はその正確さに肩を落としたくなった。
会いません。と、言われたのに追いかけてしまった。
クラルは逃げたのに捕まえてしかも、部屋に連れ込もうとしている。そうなっている原因はさて置いて状況だけ見ればこれは、完全にクラルの意思を無視していると例えて遜色は無かった。
その原因こそココからしたら止ん事無い事柄で情状酌量の余地を訴えたいが、クラルから醸されている波長は、どこかひりひりとしている。
だから、何と無く拒絶される気はして居た。
見ないふりこそしたがある意味想定内で、駄目で元々だった。やっぱり駄目だった事にはショックだけど。
落胆が全身から滲まないよう注意し、ココはクラルの望む距離だけ離れる。せめてと、コートの上から両肩をそれぞれの掌で包みはしたけど。何時ものように額合わせはしないまま、口を開いた。
「その、約束を破った事は、」
「こちら不謹慎ではないの、」
2人、同じタイミングで声が出た。お互いに瞳を見合い、瞬かせる。
「え?」
「え?」
また、同じ調子で声が重なった。