Twenty seven
気を遣われたな。
説明を受け終えた数分後。ココは広い部屋の中でぼんやりと思案した。今しがたリンが「じゃあ、最後の準備してくるし」そうと告げるなりクラルの上司と出て行った扉(それは観音開きで、シンメトリーの彫刻がなされたマホガニー材の扉)へ寄せていた視線を、ゆっくりと真横へと移す。少女は、神妙といえばそうとも見える顔つきで、眼前にあるテーブルの一点を見つめているようだった。
勿論その視線はどこにも定まっていないということは分かっていた。巨大な完美大理石を加工して作られた一枚板の天板は鑑賞するに価値のある逸材で、少女とはいえその魅力が分からない事はないだろう。だが、今は特別気を引くものでも無い。興味があるとも思えない。
「夕飯とれないなら、おやつ食べておいてよかったね」
先に口を開いたのはココだった。
身につけていたコートを今やすっかり脱いで丁寧に膝の上へおいている彼女は、今朝とかわりない格好で座っている。
「……はい」
彼女の返答は一拍遅れていた。緩慢にココを見上げて頷くその姿は神妙そのもので、すぐに元へと戻ってしまった目線の所在に、何かしらを考えているのは明白だった。
慮るか、計らざるべきか。沈黙を尊重すべきか、否か。
ココの位置から見えるのは少女の頭部と電磁波だけ。顔色を見るより波長を読めば凡その感情に察しがつくとしても、それまでだ。個人が思考する領域のその細部まで見透かせるわけでは無い。
彼らが受けた説明は、ココの想定内で留まった。反作用薬の成分説明、副反応の可能性とその想定種類、変化への予測経過時間、投薬による成長補助のため栄養点滴を断続的に行うということ、その為に胃を空っぽにしていなければいけないという事。
栄養点滴の説明以外はココが事前に得た情報以上の目新しさはなかった。主な目的はクラルへ、彼女本人の動意を含めた最終確認だったとするならば納得できる範囲の展開だった。少女は、クラルは、真摯な眼差しのまま、語られる一字一句の奥にある言外の言葉まで聞き逃さまいというように、傾聴していた。疑問には、自ら尋ねていた。
根が真面目なのだ。そんなことは十二分に知っていた。だってこの子は、クラルだ。ココが見知った、馴染んだ姿形、出会うまでに培われた教養や振る舞いや見識が不十分であっても、その基盤は変わらない。
休日であっても崩れないその整った姿勢。ココへ触れるその指先はオパールの形をした桜色、あるいは少し落ち着いたベージュの色味。柔らかくも滑舌のしっかりとした発生が語る言葉は、いつもいつも、慎ましい礼節に溢れている。
それなのに頑固だから。寂しがり屋ちゃんのくせに、一人で生きて行こうとしていたときの癖が抜けないから、無理をして、無茶をして、大小関係なく悩みを一人で抱え込んで、頑固だから、場を整えないと僕にだって話してくれなくて……。その性格を、ココはずっと育成環境のせいだと思っていた。生活しやすく、傷つきにくいようにとクラル自身が無意識に作り上げた性格なのだと。出会うのがもっと早ければ違っただろうか。その経年以上の年月を過ごせばやがて育った信頼が、恐れを上回ってくれるだろうか。ふと、ココはその疑問のまま子供のころの君はどんなだったのか妻に訪ねた日を思い出した。彼女はアルバムの写真を整理しながら、今とあまり変わりませんでしたよ。と、少し寂しそうに微笑んでいた。
確かに。それなりに日を過ごした今でさえ、少女の姿勢は崩れない。子供ってもっとこう、人懐こいというか、大人より心を開くのが早いんじゃないかなと思えども、この性格が物心ついた時からのものだとするのならば……容易に変るものではないかもしれない。
ふと、考えすぎていたことに気付き、頭を小さく振る。
「クラルちゃん、大丈夫かい?」
どうにも持て余している。もう一度ココを見上げる目線には口元に笑みを乗せて見せるが、これが最善なのかは分からない。
「はい……すみません、少々考え事をしていました。緊張しているのかもしれません」
状況に翻弄されている自分を、ココは情けないと思う。
「謝ることはないよ。僕も、少し緊張している」
「ココさんも、ですか?」
「ああ。当たり前にね」
その欠片を吐露することで装う平静は、もしかしたら少し演技めいてみえるかもしれない。君と妻は別人だと、本人には宣言したというのに。肝心の自身がどこか割り切れずにいる。良くないことだ。
「そういえば、先ほど奥の部屋で少し、室長という方と二人でお話をしていましたね。何かありましたか?」
「いや。そんなシリアスなことじゃないよ」
「わたしの、ことなのに……」
「……ただの確認だったから」
「本当ですか?」
「ああ」
「信じますよ?」
「なんだいそれ」
じっと見つめてくる幼い瞳に、ココは苦笑を漏らした。
「君に伝えるべきことは伝えたよ。危険性も、経過状況も。……あけすけにね」
「あけすけ……」
小さなおうむ返しにしっかりと頷く。
「……まあ、僕と君は戸籍上夫婦として登録されているからね。こういう場合は本人じゃなく配偶者のサインが必要だったりするんだよ」
本来であればその書類にはクラル自身のサインも必要となるが、現状を考慮されてココのみにされていた。
「……そうでしたか。今の私は子供ですから、サインできる立場ではありませんね。理解できたというだけで、記憶が戻ったわけでもないので尚更でしょう」
それは、もし少しでも不満そうな表情をすれば説明をしようと思っていた理由だったのに。少女の姿のままでも表れ続ける察しの良さに、ココは安堵した。
一時はどうなるかと思った。聞き分けの良さの理由が分からず戸惑った。だが、どうあれ良い傾向だ。
「君は本当に、理解が早くて助かるよ」
ココが彼女へと向けた微笑みは何気なく、彼からしたらごく当たり前感情だった。それでもクラルは頬を染める。
「ココさんにそう言っていただけて、光栄です」
照れ臭そうで嬉しそうな幼い笑顔の中、目元が幸福に染まっている。誇らしい気にもみえる、その表情。
ココは間近で見てしまった色に息を呑んだ。
「……クラルちゃん」
「はい」
見覚えがあった。嘘だ。
「もし、さっきの説明で不安になったなら、取りやめることも出来るよ。どうする?」
ありすぎて、ココは意図せず動揺した。
「どう、とは……?」
「言葉のままさ。君の意志を、尊重する」
「でしたら、大丈夫です。少し緊張しただけですので私、」
けれどココの困惑はこの場に出ない。クラルは気付かず、言葉を続ける。
「はやく、大人になりたいのです」
真っ直ぐな瞳がココへと注がれた。よく見知った虹彩の中に潜む薄桃色の拍動がある。不意に現れたそれは妻と似ているどころかそっくりな、眼差し、目尻の血色、伏し目の癖。
理解した。
同時に後悔した。これが彼女の背中を押した理由だったのかと。少し前に脳裏を過って打ち消した仮説の正しさがまざまざと目の前で彼の目へ訴える。通りで聞き分けが良い筈だ。きらきらはたはたと輝く柔らかいオーロラ。どうしたって見慣れすぎた波長。喜べなかった。いつから、どこから、どうして、なんで。と、疑問符を旋回させる脳裏の奥で、少女が持ってしまったその感情の残酷さに、彼女はきっと気づくこはない。
妻の名を口籠った。少女は不思議そうにココを見る。
同時に扉からノックが響く。
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