Seventeen

 驚くほど清々しい目覚めに、クラルは暫く天井を見つめていた。あの激しい頭痛が嘘のようだ。手足に倦怠感もない。とりあえす瞬きをする。じっと見つめて、首を傾げた。

 リビングじゃない……?

 照明が違っていたし、何より色も違う。もっといえばベッドに寝ていた。引き寄せた布団からは、自分に与えられた部屋のものと違う匂いもしている。
 頭が痛くなって、それからどうなったんだろう? 明かりの感じからして、あまり時間は経っていないのかも知れない。なんとなしに寝返りを打つ。打って、体を硬直させた。
 ココが、横で寝ていた。

 なんで?

 微かに聞こえる呼吸音と、長いまつ毛の陰に神経を集中させて、頭の中いっぱいのクエッションに向き合う。わたし、どうして、ココさんと寝てるの? なんでココさんがいるの? あ、もしかしてここ、ココさんの部屋? え? どうして?

「よめ入り前、なのに……」

 これって確か、すごくいけない事って、礼儀作法の先生が、言ってた。しかもココさんって既婚者、結婚してる人で、大人で、大人が子供とって確かロリコンとかペドフィリアって言うとても凄くいけない事で、どうしよう。どうしよう。私、奥さんがいる男の人と、寝ちゃった。
 血を全て抜いたように、全身が冷えた。
 クラルは、性知識が不十分だった。
 というか偏っていた。上部も上部の部分だけしか知らなかった。お陰でプチパニックに陥って導き出した答えは、ココさんが起きる前に部屋に戻ろう。だった。
 目が醒める前なら大丈夫。ココさんも気づかない。と、割と本気で考えた。
 よし。と、心の中で決断をし、そっとゆっくり起き上がる。スプリングが少しでも揺れないように、慎重に、布団から出る。自分が同年代より小柄で良かった。とこの時は信仰に感謝した。それでも、あ、服のまま。と、気付いたその時、

「−−ん、……クラル?」
「−−!」

 気怠げに伸びてきたココの手で、引き戻された。

「早起き、だね。でも、昨日、君大変だったんだから……もう少し休んでな」

 布団を直されて、体をぽんぽんされて、頭を撫でられた。もう、クラルには訳がわからない。分からないまま、ココに視線を送った。
 寝起きで、少しぼさついた黒髪の美丈夫が横で頬杖をついて、「目が冴えたのか?」はちゃめちゃ愛おしげに目を細めていた。額にかかっているだろう前髪を整えられて、そして、ホッペを撫でられて、

「仕方ないな。……おはよう、クラル」

 微笑まれた。
 かっこいい、と、思う以上に、見つめられている訳が分からなくてそもそもその熱っぽい視線の意味も不可解で。意味がわからない。一体何が起こったのだろう。それに昨日まで、ちゃん付けだったのにいきなり呼び捨てで、確かに一度呼び捨てされた気がするけどあの時の自分は迷子だったし、ココさん焦ってましたし、今と違いますし。

「…………」

 クラルは無言のまま、ココと目を合わせていた。
 何か言いたいのに、何を言ったらいいのか分からない。叫ぶのも違う気がする。とりあえず、いつのもようにじっと見る。

「……え?」

 そうこうしているうちに、ココの表情も変化してきた。
 瞳から色めいた物がなくなり、目が見開き、表情が固まってくる。「うそ、だろ……」何が嘘なのか。

「それは、わたしの、セリフです」

 声を出したら急に目の奥がツンとなって、クラルは訳が分からないままひぐひぐ泣く勢いのまま、起き上がって、

「わたし、もう、およめさんになれません」
「え……?」

 言葉に出したら、涙が出て来た。
 感極まるとはまさにこのことで、恥も外聞も投げ捨てんばかりにぱたぱた溢れて来た。目が溶ける勢いだった。こんなに泣いたのは人生で初めてかもしれないと言うほど、人前で、

「あ、え? クラル、ちゃん?」
「ココさん、ろりこん、だったなんて」
「ええ!?」
「おくさまっ、いる、のに」

 一度始まったら止まらなかった。

「こんなの、いけません」
「クラルちゃ、」
「女の子は、けっこんするまで、男の人と、ねちゃ、いけないんです」
「ちょ、」

 キッとココを睨みつけ、ベッドをばんと叩く。

「夜を、いっしょにすごしちゃ、どうきん、したらもうおよめさんになれ、ない!」
「−−えっ?」

 ばふっばふっと、埃が舞う。その中でまたえぐえぐ泣きる。手のひらが痛くなって来た頃に、突っ伏した。シーツにぼたぼた染みが出来てもコントロールが出来ない。ココさんがそうだったなんて全然思わなかった。信頼していたのに。酷い。酷い。酷いというより無性に、今の状況がなぜか悲しくて悔しい。そう、どうしてだか悔しい。

「クラルちゃん、待って、落ち着いて、それ意味わかって、て言うか」

 ココの声が焦りを帯びて頭上から降ってくる。

「君、 昨日倒れてたの、覚えてないのか?」






「もうしわけありません」

 最悪。最悪。私、最低。ココに向かってひたすらに平伏する。

「いや、気にしてないから……頭上げて」

 そう言う訳にもいかなくて、微動だに出来なかった。「わたし、今、ココさんにかおむけできません……」ベッドの上で喋るから、声がくぐもる。
 あれからクラルは、ココにことの顛末を聞いて、血の気を引かせた。曰くココは、突然の体調不良に倒れた自分を介抱してくれていたらしい。ココのベッドに寝ていたのは、何かあった時に直ぐに対応出来る様に、と言う事だった。
 クラルがなぜ倒れていたのか分からなかったからこそ、与えた部屋ではなく自室に運んだのだと。なるべく細かく目を配れるように。意識が今日までに戻らなかったら、適切な場所へ連れて行く予定だったとも。

「……参ったな」

 横で寝ていたのは、夜間何かあった時のためだったとも、言われた。

「ほんとうに、ごめんなさい」

 確かにそれなら、ココの部屋で、ベッドで、一緒に寝ていたのも納得できる。クラルが借りている部屋のベッドはココと寝るには狭い。

「わたし、かんびょうとか、つきっきりで、していただいたことが、なくて」

 視界の端に映る大きな胡座の影が、少し動いた。

「早とちり、しました……」

 頭上からは、うーん……。と、唸り声が聞こえる。がしがしがし。と、多分、頭を掻く音も。悼まれない。私、こんな優しい人に、ロリコンだとかペドフェリアだとか、とんでもない冤罪をかけてしまった。
 しかもあんなに、子供っぽい取り乱し方までして、恥ずかしい。

「ほんとうに、」
「お腹、空いてないかい?」

 更に深く平伏して再度、謝罪を口にしようとした時だった。

「へ?」
「よく考えたらクラルちゃん、一昨日から何も食べてないよね?」

 ココの声に面食らった。

「お腹が空いてると、碌な考えにならない。大人にもよくある事さ」

 言われれば、クラルは一昨日の夕飯以降何も食べていない。昨日の朝食は食べそびれてしまった。

「まあ、病み上がりだから。病中食とまでいかなくても、消化に良いものになるけどね。お粥か、ポリッジ、ポタージュ……それかパンプディングの、カラメル付き」

 −−カラメル。 香ばしくて甘いブラウンの誘惑に、思わず耳が反応する。お腹に力が入る。

「自慢じゃないが……僕が作るパンプディングは、絶品だよ」

 甘い誘惑が、甘い声で頭の上から降ってくる。クラルは額をマットレスにくっつけたままぎゅっとシーツを握った。わざわざ言われなくても分かる。ココの料理の腕の良さは、この数日で十二分に実感している。正直、一昨日は、ハンバーガよりもココが作ってくれた夕飯の方が絶品だった。チーズたっぷりのお手製マカロニのグラタンと、新鮮魚介のアクアパッツァ。アイスクリームを使ったフルーツたっぷりシェイク。
 そんな彼が作るパンプディングなんて、想像しただけでもう、お腹が鳴きそうになる。
 でも、ご迷惑沢山かけたのに。酷い事言ったのに。お腹が空いたなんてそんな、更にご迷惑……。

「材料は、そうだな……君の回復祝いだ。卵は全卵黄、パンはシルキーフラワーのパン・ド・ミ、ミルクはカルシウムがふんだんでアレルゲンの無い、ロックスカウ」

 ココに迷惑をかけたくない。その気持ちは本当なのに、空腹を認め出した身体が、羅列される食材を前に耳を傾けろと命じていた。だってそれは全部、クラルだって知っている、

「そしてカラメル。使うのは蜜が結晶化して採れるシュガービーのブラウンタイプ」
「高きゅう食材ですよ!」
 全てが時価の、食材だ。ばっと顔を上げる。
「そこまで、で、なくてかまいません。なんならパンは、固くてもいいですし、ミルクも玉子も、カラメルだって、ぜんぜん、」 

 思わず慌てた。なんとか平静を装うことは出来たけど、身体の中は焦りで満ち満ちた。そうしたら、目の前で胡座をかいていたココの顔が、爽やかな声と一緒に、

「やっと、顔を上げてくれたね」

 笑った。
 頭こそ撫でられなかったが、優しく清潔に、微笑まれた。

「じゃあ、僕は朝食を作ってこよう。クラルちゃんはもし、起きれるようなら顔を洗って来な。勿論、辛いようならここで寝てても良い」
「あ」

 スプリングの音を立てて、ココがベッドから降りていく。一点で沈み込んでいた所が急にフラットになった小さな反動で、クラルはその場でぺたんと座る。そのまま、うんと高くなったココを見上げた。
 姿勢の良い体格、がっしりとした逞しい背中へと続いている引き締まった腰、短い髪は寝癖がついている。肩越しに眼が合ったら、少しだけ困ったように微笑まれた。

「君って、案外と感情豊かだよね。安心したよ」




 キッチンに立つココの背中を眺めていた。
 甘さを増したジンジャーショコラの暖かさを、掌で味わう。
 椅子の上で、お行儀よく座る。

「辛くないかい?」

 食器を洗う音が続いていた。お手伝いは、病み上がりちゃんにはさせられないよ。と、言われた。

「平気です」

 パンプディングはココの言葉の通り、絶品だった。たっぷりの卵液が染み込んだパンは一口より小さいサイズで、口にし易く、舌の上でじゅわりと解れた。

「そういえば今日この後、リンちゃんが来るよ」

 暖かく柔らかい甘さは、体を内側から満たしてくれている。

「リンさん、が?」
「ああ。覚えているかい?」
「はい」

 振り返ることなく、ココは続ける。

「君を心配していたよ。念の為、ドクターを連れて来てくれる。採血くらいはするかもしれない」
「はい」
「注射は、平気?」
「はい」
「良い子だね」

 蛇口から水の流れる音、そして、食器が水切りに置かれる硬い音がし始めた。逞しくて、広い背中が動くたびに、トレーナーにシワが出来ては消える。

「ところで、さっきの話だけど」

 不意に、ココの声の静けさを持ち始めた。

「あの、抱えていた写真を見た途端、頭痛が始まったっていうのは……」

 視線をシンクに注いだままだから表情は伺えないが、ほんの微かな緊張が滲んでいる。言葉を彷徨わせて言い淀む。それをクラルは察して、続けた。

「……はい」

 ココが言う写真は、ココとその妻との結婚写真だ。クラルはそれを抱え込んだまま、倒れていたらしい。

「申しわけ、ありませんでした。勝手に……」
「いや。気にしてないで。責めるつもりは毛頭無い。ただ、確認しただけだよ」

 思えばその直前に、何か気になる物を見た気がするけれど、見間違いだったようにも思う。好奇心を満たすにしても、大切な物だと思えば尻込んでしまう。
 それより、

「あの、ココさん」

 クラルは、意を決した。

「ん?」
「わたしって、感情豊か、ですか?」

 少しの間を置いて、ココの声が続く。

「……そうだね。割と、分かりやすいよね」
「……え」

 そんなことは初めて言われた。クラルは、ココの体の輪郭を眺めて思う。
 いつも周囲には、子供らしさに欠ける。とか、表情が読めない。とか、何を考えているのか分からない。と、言われていた。最近もルームメイトに、もっとわらってよー!と、言われたばかり。さっきの取り乱しは状況的に驚いてしまって、仕方がないにしても……。
 どうしてこの人だけ、違うことを言うのだろう。

「僕の目が、取り分けて良いからかな」

 不意に、振り返られた。洗い物が終わったのかもしれない。手はタオルを持って水滴を拭っている。クラルに向かって、優しく微笑み、

「クラルちゃん、結構気持ちが目元に出てて、可愛いよ」

 そんな言葉、初めて言われた。



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