−Légumes−

 注意深く、鉢の中を練り混ぜるクラルの手元をココは眺めていた。ふつふつとあった細かい粒子が次第に溶けてなくなっていく様子は、食材に対してある程度の知識を持っている彼からしたらとても興味深い現象だった。
 やっぱり、単純化している。僕が聞いた話と工程状況が違う。なのに、見える波長は活性の色が濃く、失敗している訳じゃなかった。
 ココからしたら小さな手が、しっかりした手つきで鉢の中身を練り混ぜていた。のの字でゆっくりと、粒をつぶす様に動いている。
 ココはさっきみたいに鉢を支えていた。下のお湯がカカオの中に入らない様に、お互いちょっと慎重に作業に挑む。


「そう言えば腰、お辛くありませんか?」


 顎の下で、クラルの声がふとして上がった。頭のてっぺんに顎を乗せていたからその、骨の所から舌先に、細い振動が伝ってくる。


「腰?」


 問い返すと気持ちのいい声が、ええ。と、肯定する。


「少し、屈んでいらっしゃるみたいだから」


 クラルからココの様子は見えない。その考察はあくまで想定だけれど、クラルは自分とココとの身長差を鑑みれば自然、導き出される簡単な計算でもあった。


「私、ステップに立てば良かったかしら」


 照れたような困ったような笑いがココの耳をくすぐる。
 その音に、好意に、胸の奥にゆったりとした温もりが満ちてココは、ぎゅうっとクラルを抱く腕に力を入れた。


「大丈夫さ。そんなに辛い事もない」


 もう、なんて、クラルはくすくす笑いを上げる。
 苦しいですよ。と、言われるだろうな。と、ココは思った。思いながら、クラルのこめかみに唇を押し当てる。クラルの明朗さが一層に濃くなる。その時に、


「しあわせ」


 クラルは、ココの厚い唇を目蓋の横に感じた時、ほとんど無意識に、そう口にした。無意識だったから声は穏やかで、それはまったくの独り言だった。
 あ、と気付いて手を止め、ココの表情を伺う。すっかり見慣れた筈なのに、目に留める度に吐息を溢してしまうくらい、それこそアカデミア美術館で目にする彫刻さえ霞む程の美貌が、クラルの顔の直ぐ斜め上で、ぽかんと、瞳と口元を開いていた。けれど忽ちに、柔らかく破顔する。
 背中にはちはちと硬くて、男らしい身体の感触。伺える微熱が、ゆっくりとクラルの肌を汗ばませる。


「まあ、だらしの無いお顔」


 擂粉木をしっかりと握り直した。同時に、ココの手もきゅっと握る。そうしないとクラルは、今直にでも全ての手を離して、ココの首に抱きついて、愛しています。と、キスがしたいと思って、実行してしまいそうだった。
 視線を戻す。もう、チョコレートと言って遜色の無い、元カカオビーンズの甘い匂いの液体は、すっかり艶を持ち始めている。


「酷いな。君のせいなのに」


 ココの声が、胸に、こそばゆく広がる。


「酷い。私のせいになさるなんて」


 くすくす笑う声が、チョコレートの香りと混ざり合う。
 鉢の中の色合いが、不思議とミルクを落とした様に柔らかくなっていく。テクスチャも、驚く程、滑らかさが増して何故か、ある筈の無いフランボワーズの香りがほんの少しけぶった。


 テンパリングは、ココのアシスタントが優秀で、問題なく終わった。モールド(それは、きゅっと小さなカカオポッドの形をした物と、ぷっくりとしたハートの形をした、どちらも一口程度の大きさになるシリコーンの型)に流し込む作業も、空気抜きも、クラルからして驚く程呆気なかった。
 こう言う物なのかもしれないわ。テーブルで粗熱をとっているショコラ達を見て、クラルは思う。ちょっと腰が辛くなってきた。と、苦笑して近くの椅子に腰掛けたココに手を引かれるまま、座る事に成った、その、堅い膝の上で。
 ココとの手は未だつなぎ合っていた。冷蔵庫に入れる迄、とココが言っていたからおそらく何かしらの光が条件のひとつに成っているのかしらとクラルは思いついたまま、ココに尋ねた。ココは相好を崩して、ご明察。と、目の横にキスをくれた。


「ココさん」


 チョコレートから視線を外し、ココを見上げる。


「ん?」


 ココは上機嫌に、微笑む。


「あと、どの位でしょうか?」
「後……1分くらいかな」


 チョコレートの入ったモールドを一瞥して、ココは続ける。


「思ったより、調理が早かった」


 ははっと、楽しそうに笑う。あら、とクラルが、険しく無い程度に眉を寄せて笑う。


「やっぱり、そうでした?」
「ああ。びっくりする程順調だった」
「それは、不思議な事?」


 ゆったりとした声に、どうだろうね、とココが返す。


「少なくとも、僕が聞いた話よりはうんと、簡単になっていた」
「あらまあ」


 クラルは少し笑った。そして不意に声を止めて、目の前のキッチンテーブルを眺めた。
 ボウルがあって、鉢があって、ドリップケトルに擂粉木、飛び越えて奥のコンロには、フライパンが乗っている。いつもなら工程と合わせて洗い物をするけれど今日は、とてもじゃないけど手が回らなかった。文字通り、手が足りなくて。
 でもきっと、熱が取れたチョコレートを冷蔵庫に入れたらそんな事はなくなって、いつも通りのお互いに成る。腕まくりをしたココが食器から全てを洗って、クラルが、その水滴を布巾で拭うのだ。手なんて繋がない。


「さ、最終工程だ」


 背後から、ココが声を出す。


「チョコレートを冷蔵庫に入れよう」
「ココさん」


 クラルは、ココの膝から下される前に、振り返った。少し意表を突かれたと、言わんばかりの顔が、そこにあって、クラルはまたじんわりと愛おしくなってしまう。整った目鼻立ちに耳、色の綺麗な瞳、さっぱりとした黒く短い髪に、逞しい首元、その全てが夢の様に特別で、愛しい。


「進む前に、お願いがあります」
「……何かな?」


 ぎゅっと、ココの手を握り返した。クラルは、


「今日、出来る限り、こうしていませんか?」


 ココの瞳が、数度瞬く。やおら、口を開く。


「こうしてって、」
「手を、繋いだまま。と、言う事」


 彼の、戸惑いを察してクラルはそっと、続けた。


「だって、滅多にない機会ですもの。離すのが勿体ない、」


 クラルの台詞全てを、ココは待っていられなかった。
 キツく、その膝に乗せたままクラルを後ろから抱きしめる。勿論手は離さない。小さい悲鳴が一度上がったけれど直ぐに、忍び笑いに変わったからココは、構う事なんてしなかった。



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