−Viandes−

「今度は、皮剥きだ」


 コンロからフライパンを引き上げて、琺瑯のボウルにカカオ豆を落とし込みつつ、ココは朗々と言った。
 クラルが手を出すよりも早く、ボウルをひょいと持ち上げる。そのまま、背後にあるキッチンテーブルへ置いた。その動きの流れで、確りとした軍手を掴む。ただ、ココの手より幾分も小さい。


「熱いから、クラルは軍手を嵌めようか」


 クラルはすっかり分かっていた。だから、ゆったりと答えた。


「はい。お願いします」
「じゃあ、此処から手を……うん、そう」


 上機嫌なココが目の前で開らいてくれた分厚い軍手の口に手を、指先から滑り込ませる。
 お互い片手しか使えないのに、ココはやっぱり器用だった。少しごわついた衣がすんなりと手に馴染んでいく。ココさんってそう言えば両手利きだったかしら。と、何と無しに思って、自分も装着の手伝いをしようとテーブルの上に視線を落とした所で、大きな掌に制された。


「僕は大丈夫」
「ですが……」


 戸惑ったまま見上げれば、優しく微笑まれる。


「良いから。あ、終わった物はこっちのすり鉢に入れてね」
「……はい」


 クラルは、渋々頷いた。
 ココは至って平静にしている。元々美食屋として様々な猛獣や食虫植物達を相手にしていたり、価値観が崩壊する程の気象にも適応力がある身体の持ち主だから、大丈夫と言ったその言葉を疑う気は彼女に無い。熱毒なんて液体が生成出来るのだから本当に、大丈夫なのだろう。
 それでも、琺瑯のボウルに移したカカオ豆をちらりと見遣った時クラルは眉を顰めた。ほんのりと冷たい空気の中でそれは、ほの白い湯気を立たせている。
 ローストしたての豆はきっと中まで火が通って、とても熱い。


「じゃあ、始めようか。今のうちなら皮も剥け易い」


 クラルはそっと、決心した。それでも、ココさんよりもうんと沢山剥きましょう。


「はい」


 決意は胸に秘めたまま、ココが指を延ばす前に、その一粒を取る。
 軍手越しなのに熱を感じるそれは、やっぱり、じっくりと熱い。挟み込む指に少し力を入れた。ぱりっと小気味の良い音がして、するん、と薄皮が脱げていく。あら、と思った。いつかのマローネよりもたやすく実が現れる。


「ココさん、こちらで宜しいですか……?」 


 あまりにもあっけなさ過ぎて、思わずココに確認を求めた。ココが、おや、と零す時の顔になる。


「ああ……。早いね」
「よかった。かなり、あっけなく剥けるのね」


 了解を得たクラルは無敵だった。次々につまんで、次々に実を取り出していく。じんわりと指先に伝わる熱量が増えてきたけれど、なんだか楽しくもなってきた。

 ぱりッと剥いてころんっと擂り鉢に落とし入れる。皮はビニルをかぶせた小箱へ落とす。
 ルーティーン作業のリズムについ、鼻歌を刻み始めた。ココと繋いでいる手を無意識に揺らす。空気をハミングで震わせる。このよーでいっちばんすきなのは、おりょおーりすること、たっべること。
 ココだけが、不思議な顔で首を傾げた。
 ボウルからガラッと実のひとつを取り出し、彼からしたらほの熱いカカオ豆に指先で圧をかける。クラルと同じ要領で、ぱりッと剥けた。ココは少し面食らい、ぐっと奥歯をかんだ。



 大きな擂り鉢に、綺麗に皮の剥けた豆が全部納まった。暖かくて芳ばしい香りが空間に溢れている。


「それじゃあ次は、細かく砕いていこうか。そのあと、このまま湯煎にかける」


 ほら、と差し出された木の棒をクラルは受け取った。
 あくまで今日の調理主担当は、クラルだ。手にしっくりとくる重さと太さに少し身が引き締まる。


「砕いて、しばらくすれば質感に変化が出てくる。一度、そこまでやってみよう」
「はい、ココさん」 


 だって今作っているのはココに差し出す為のバレンタインドルチェ。


「少し骨が折れるが……頑張って」


 ココがクラルの近くまで擂り鉢を寄せる。どうぞ、と告げる様にその手で促されたクラルは、――あ、鉢を支えませんと。ふとして思ったと同時にココと繋いだままの手をすっと動かしかけた。


「クラル」


 その反射を、強い力で阻まれる。


「ここで手を放したら、一気に劣化する」
「あら……すみません、つい」


 クラルは少し、油断していた。というか、繋いでいることに慣れてきて手の感覚がなくなってきている。試しに指先を動かしてみた。ほんの少し乾いているけれどしっかりと節の立った、慣れた男の指先が指の間に触れる。硬くて、暖かくて、綺麗な形の指。それが分かって少し、ほっとした。
 ココがふと、笑いを零す。


「鉢なら僕が支えるから」 


 そう告げるや大きな手でしっかりと、白い陶器の側面を握った。クラルの肩先にココの分厚い胸板がぴったりと触れる。腕が少し窮屈になったけれど、クラルはこのくらいがお互いにとって適切な物に感じた。


「ついでに、姿勢も少し変えよう」


 だからココの言葉に少し、すんとした気持ちになってしまった。


「姿勢を?」


 クラルのおうむ返しに、ココは気持ち楽しそうに頷いく。鉢に添えたばかりの手を引いて、窮屈を感じ合っていた側面を少し解放させる。すん、としたハッカ飴を舐めた時のような冷たい気配に、クラルは途方にくれた。
 それでも、それを言うのは何だか憚れて、夫婦でもうずっとこれからも一緒にいるのに離れるのが寂しいなんて、大人として相応しく無い気もして、ココさんの言う通りに流されてしまいましょう。と、クラルは思った。


「ちょっと手こっちの腕の力、抜いててくれるかな」


 そんな事、容易かった。気持ちのままに、肩を落とせば良い。


「こう?」
「そう」


 そうしたらココが急に、相槌と一緒にクラルと繋ぎ合った手を上へと引き上げた。そうして、


「ちょっと頭を潜って、……そうそう、後は、その手をここから出して……」


 ココの誘導にクラルはくすくすと笑いを零した。
 持ち上げられた腕を支点にココの二の腕が頭の上を通り過ぎる。クラルだけは、動こうとしたらダメだよと言われてしまったからじっとして、でも、肩を震わせ笑った。がっしりと堅牢な腕が、目の前を下りて、背中に、男の鼓動が触れる。


「うん、オーケーだ」
「もう」


 声を溢して笑ったまま、背後から自身を包み込んだココを見上げる。ぴったりと、背中にココの体が寄り添っている。


「ダンス?」
「音楽、かければよかったかな」


 サイドからフロントへと回った手の繋がり毎ぎゅうっと、ココが腕に力をこもらせてくる。クラルはくすくす笑い続けてしまう。


「冗談はさておき、この方が邪魔にならないだろ」


 やがて、


「ほら、続きを始めよう」


 クラルの真横から手を伸ばし、改めて鉢を支えた。ついでに、近くなったクラルの旋毛にキスをする。クラルは嬉しくて、お腹の少し下で重なるココの手を握り返す。


「はいはい」


 腕が窮屈になっているよりずっと、嬉しい気持ちになる。
 観念したポーズで相槌を打ってみた。けれどくすぐったい嬉しさにふふふっと笑ったまま、カカオ豆に擂粉木を充てる。


「ちょっと硬いやつもあるだろうから、気を付けて」
「はい、」


 ココはそう言ったのに、豆は、クラルが先端を置いた力で簡単に砕け始めた。
 ざくざくざく。擂粉木を垂直に置くたび、呆気なく粉砕される。柄が埋まれば埋まるだけ、まるで軽い小麦菓子よろしく割れる。繰り返せばだんだんと、あっと言う間に細かくなって、おおきな擂り鉢の半分はあった豆たちは徐々にその原型を無くしていく。


「ビスケットを、砕いている気分だわ……」


 少しの肩透かしを味わいつつクラルは独り言ちた。やっぱり、グルメ界の特殊調理食材の割には難易度が低いのかしら。とも思う。


「………そうだ、な」


 ココだけは少しくぐもった声で、クラルの後頭部に唇を当て額を擦り付け、きゅっと瞼を閉じた。
 擂り鉢を支える腕にも、クラルの腰から前に回した腕にも繋ぎ合う手にも、自然と力が篭る。僕がブルーグリルで聞いた様子と違う。と、思うが、同時にああそうだ、と、言われた言葉を思い出して、口を噤んだ。
 ざくざく、ざく、しゃり。音に変化が産まれ始めた。と、絡んだままの指先が彼女の方からそっと握りこまれた。ん?と思って顔を上げる。


「クラル?」


 名前を読んだら、クラルが不思議そうにココを見上げた。視線が出合い、柔らかな口元が優しく動く。


「なあに?」


 丁寧にカールされた睫毛を揺らす目元が、そっと微笑う。


「いや、呼ばれた気がして」
「私が? いいえ」
「そうか……」


 じゃああれはただの無意識だな。なんだ。ココはちょっと、残念な気持ちに成ってでも愛しさも湧き上がってクラルをもっと抱き込んだ。何と無しに顎を、彼女の頭に乗せる。
 気持ちのいい声が、ココの真下でくすくすと笑う。その朗らかさで、ココの手を握る掌に力が篭る。


「あらでも。すり鉢の中身を、見ていただきたいかも」
「ん」


 お願いされるまま、クラルの手前に寄せている鉢を覗き込む。


「少し、様子が変化してきまして」


 ごりごり、と。擂粉木が鉢と当たる音に合わせて、中の粉末がもったりとし始めていた。色も、濃いショコラカラーに成っている。ほのかに嗅ぎ慣れた香りが、香ばしさの裏側に滲んでも来た。


「段々と、チョコレートらしさが出てきました」
「そうだね」


 見た目には未だ粒子が伺えるけれど、カカオバターが出始めたそれは確かに粉らしさが、目の前で徐々に消えてチョコレートのテクスチャに近くなる。


「あの、ココさん」


 ココはじっと、真下で起こっている変化を眺めた。やっぱり、速い。


「もしかして、このまま回し続ければ宜しいの……?」
「いや。そろそろ、湯煎しようか」
「ゆせん」


 確認の様に、クラルが言葉を繰り返す。少し、喉を鳴らして笑う。


「やっと、チョコレート作りと言う感じに成りますね」
「あれ?これ迄は違ったかい?」


 その問いには逡巡の、間を置いて、


「初めての、作業でしたので……」


 気まずそうに、手に力を込めた。
 



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