−Mignardises−

 翌日の朝、クラルは横で寝息を立てるココの顔をじっと見ていた。泉が湧く様に目が覚めてそれから、部屋に朝の日差しが差し込む迄、眺めていた。
 薄く開いた唇から、微かにショコラの香りがしている。と言うか、クラル自身からもそれは香っていたから正直どちらの物かは分からない。ただ真っすぐに、筋の通った高い鼻梁や、その先から左右にある、眉頭のしっかりとして毛の流れが見事な眉毛に、その下の奥まった場所にある、今は瞼に覆われた瞳の、目尻に行く程長い睫毛、少し生えた無精髭は、間違いなく彼女の、夫に与えられた物だった。
 クラルは眉間にシワを寄せて、じっと、その全てを見詰めていたがやがて、彼の額を掌で、ぺし。と、軽く叩いた。もの言わず、静かに、ぺしぺし掌を充てる。


「ん。んん、え……なに? え? クラル?」


 ココがかすれ声で、反応を示し始めても、彼女は無言で続けた。だって、ココはどうしてだか嬉しそうだった。「いたい、いたいよ」なんて言う声も、寝起きでかさかさしているのに、嬉しそうだったからクラルは、なんだか恥ずかしくなった。そもそも心の持ち方から、ぺしぺし、という擬音語が正しい気がしているけれど実際はぽんぽんと、前髪の跳ね上がった額を何度も押さえる程度。
 だから一度つぶやいた。


「うそ、ばっかり」


 そうして、次はその手の指先で、生え際から思いっきり髪をかき乱した。そもそもが寝癖であちこちはねていたから、遠慮なんてしなかった。


「え? なに、ほんとに、どうしたんだ」


 困惑というよりは愉快な事に巻き込まれてなんだかおもしろい。と、いう声色で、でもやっぱり寝起きのかすれ声でココがクラルの手首を掴んだ。大きな掌の中で見る自分の手首はとても細い枝の様で、錯覚のマジックだわ。と、クラルは思う。
 クラルの手首を握ったまま、ココがゆっくり起き上がる。あくびをひとつ、零す。


「どうしたのも、何も……ありません」


 クラルは、ベッドに横たわったままココを背姿を見上げ、唇を尖らせた。自分の手首がいつの間にかシーツの上で、ココの掌に押さえられている様な形に成った事には少し、驚いたけれど、何も言わなかった。
 ココは彫刻のように整った筋肉のうねりを持つ裸体を朝の陽光に晒していた。カーテンがレースだけに成っている窓を一瞥して、「ああ、遮光の、引き忘れてたな」と。「通りで、奥さんが早起きだ」とも言ってから怠慢な動きで視線をクラルへと移し、シニカルな微笑む。
 薄く日に焼けた逞しい裸体に、光が当たっている。その腰回りをちゃんと、クラルの体をも覆っている大きなブランケットを引き寄せて隠した彼を、クラルはじいっと見据えたまま頬を預けていた枕を抱え込んだ。さっき迄ココも使っていたから、鼻先を埋めると、クラルの好きな、ココの匂いがした。


「あちら、いったい、何なの?」


 何よりふわふわで大きな枕は、少し露になったクラルの素肌を隠すのにうってつけだった。だから、思ったまま、言葉を紡ぐ。


「何なの? って?」


 ココは腰をひねり、クラルを改めて見下ろした。声はすっかり、いつもの彼の音に成っていた。
 クラルの手首を捕らえていた手を、彼女の顔の真横(といっても、クラルは今枕を抱えていたから正しくは枕の真横)に落ち着けて上半身を支え成るべく、妻との距離を近くする。妻。クラルに対してそう思うたび、そして、お互いの左手薬指に揃いのリングを認める度、ココはにやつきそうになる口元を自制する必要があった。
 ココの視界にはクラルの、寝起きのしどけなさが映っている。深いブルーネットの豊かな髪をシーツに流れるまま、枕を抱き込む薄い肩から延びる腕や肌の色に、まばゆさを感じる。キャメルのブランケットとクラルのベージュの肌はとても相性が良くて、その姿がどんなナイトウェアよりも似合うし、そそると、ココは思った。ほんのりと透明の産毛を光らせるそれがどんなに滑らかで、手や皮膚によくなじむものなのかも、ありありと知っているからこそ。


「カカオ豆、です」


 ぶっきらぼうに、クラルが言い捨てる。


「グルメ界のだよ?」


 いまさら何を。との驚きを声の調子に乗せて、ココは答える。


「そうでなく……」


 クラルは枕を更に抱え込んだ。2人で選んだそれは大きくて水鳥の羽毛が沢山入っていて、気持ちが良い。ずっと抱えているとほんのりあったかくなる。


「今、あさ、でしょう?」
「うん。15日の、午前7時くらいかな」


 ココは時計も見ずに答えた。


「昨夜、何時にお休みか、覚えていらっしゃる?」
「時間?」


 そんなことが気になるのか? と、片方の眉をあげてクラルへ、不思議な事を聞くね。と言葉の代わりに伝えてみせた。
 少し体を起こし、体の前面を全てクラルへと向け直す。顎に指を添えて考える振りをする。


「覚えていないな」


 気持ち前屈みに成って、片膝を立てた。勿論、柔らかくて大きいキャメルのブランケットはその下半身に纏わせたまま。クラルの視界を慮る事は忘れない。ココもクラル同様、何も身にまとっていないし何より、ココは男だから、朝の生理現象が収まるのに少し時間が必要で、その間は十分に気を付け無ければいけなかった。


「クラルは?」


 ココは指先をクラルへと伸ばした。手触りの良い髪の隙間から側頭部を捕らえて、そっと撫でる。


「私が、覚えていたら……奇跡です」


 クラルは昨夜を、正確には昨日の夕方辺りから日を跨いだ迄の出来事をさっと思い返して、枕を顔へと寄せた。
 寝食を忘れるとは正にあの事だった。
 チョコレートは口にして居たから、言い換えるなら忘れて居たのは自ら寝むる事だったのかも知れない。外出の予定が無くて、本当に良かった。と、クラルはふかふかの枕へ深い息を送る。外に出る日は朝からその気持ちを整えるためにも化粧を施すから。幸い昨日は、リップで唇の血色をよくしただけだった。その唇を、クラルはあの時自らほの熱い期待を持って、夫の唇にくっつけた。
 ココの声が嬉しそうに笑う。


「そうだね」


 思い返せばうっとりしてしまう時間だった。未だ陽のある時間から気持ちのいいキスを、何度も、何度もして、お互いの口元をチョコレートで少し、汚し合って、ココはクラルの舌先を吸った。甘いそれは微かにフランボワーズの味わいがした。
 ココだけがそれに疑問を抱いたけれど彼は、考察をいったん思考の外側へ追いやった。ソファはココには狭かったがその分お互いの肌がベッドより何倍も密着して、良い時間だった。人妻、つまり左手の薬指に指輪をはめて居る女の艶やかな痴態は、それの番が自分だと分かっていても、興奮を呼び起こす。新婚だった時の気分を思い出させる。疲労さえも感じず、何度も何回も互いの関係を確かめ合った、決して戻れない、特別な時間。

 あ、やっべ。

 クラルの髪を撫で梳かしながらココは、思った。生理現象が治まらない。と言うか、治まりようが無い。何だこれ。痛みは無いけれど変だ。
 クラルを見下ろした。大きな枕を抱え込んで顔を埋めて、ほんの少し目を伏せている。ほんのり頬が染まっている様子はココの指先が心地良いと言っている様にもまた、或は、体で沸き立つ慾を抑え込んでいる様にも見えた。唇がほの赤く染まっている。

 実際そのどちらも正しかった。ほんの少し外気で冷えた髪の隙間に差し込まれた指先は熱くて、その迷いの無い動きが彼女には心地よかった。同時に、彼に触れられる度、どうしてそんな、子供をあやすようになさるの。と、内側が切なくもなった。抱き込む枕から芳るすんと優しいココの香りが鼻腔から入り込めば入り込むほど、私達はもっと奔放な事さえ出来てしまう、それを誰からも咎められることのない関係なのに、と。
 奔放。その形容が産まれた事に、クラルは自分でも驚いた。新しい発見だった。最近読んだ文学の記述、例えばメリスマンの書籍に類似の表現があってそれを、無意識にでも気に入って模倣してしまったかしらと思って同時に、どうでも良いわ。とも。文壇においてなら罪深い事だろうけれど、クラルは、科学者だったから。そして今この時で言えば、ただ夫の指先に酔う、妻だったから。
 ほう、と細くともたっぷりとした吐息を吐き出す。昨日の甘美が内包されているまま、それはあまく、匂い立つ。フランボワーズの香りに似た瑞々しさとショコラの濃密な味わいが強くフラッシュバックして、喉元が動く。足がそっと、ブランケットの下で、擦り合う。

 ――あちら、本当に、なんなの? 自分の言葉だった物が、瞼の裏にちらつく。

 不意に、髪を梳くココの手が止まった。代わりにその親指が顳かみに触れて、少し皮膚を引っ張っぱられる。クラルは視線だけを彼へと流したけれど、その行く先が辿り着くよりも早く、耳元にココの呼気を感じた。
 影が深くクラルを包み込んでいる。
 雄の呼吸が僅かに、逡巡の気配を滲ませて、


「しよう、か」


 クラルは、耳朶を食んで来たココの訴えに、肩を震わせた吐息と共に充分な安堵感を覚えた。枕にしがみついて居た腕の力が意識しなくとも抜けて、頭がゆっくりと、ココへと向かい合う。臍の奥をざわめかせたまま唇同士をそっと触れ合わせて、離れる頃に熱い、情欲を滾らせた瞳と瞳がぶつかる。
 それはとても潤んでいて、今にも発熱しそうなくらいに、燃え立って見える。


「なさる、の?」


 鼻先がこすれ合う。ココの指先が、クラルの頬から首の筋を伝う。教え込まれた体が浮き上がる。


「ああ……駄目?」


 唇の先がもう一度、擦れ合う。枕が強引にクラルから引き離されてそのまま、大きくて熱い掌がブランケットの下で、クラルのお腹を下へと舐めてくる。そわっと、クラルは腰を浮かせた。ココの動きでマットレスが少し沈むその時に、ああやっぱり。と、天啓に似た確信を抱いたからココの唇に唇がもう一度重なる前に、懇願した。ココさん――あなた、お願い。


「して、」


 言葉は息の荒い唇に飲み込まれた。
 あまいショコラはクラルから、ココを愛する事以外の感情を全て奪っている。泉が土地を潤わせて湧くように、情愛と親愛と敬愛とを内側に満たし入るからその熱量が離れるだけで、例え眠りの淵に居ても心体を切なく、幼い悲しみを呼び込んでいる。クラルは、掌にココの髪の感触を、唇に性の強い夫のあつさを感じたまま、その中和を望んだ。
 血清ならきっと、彼が持っている。その言葉を湧き上がらせ男の下唇をそっと吸い込む。
 微笑んだココの指先が、女の源泉に触れる。






(2017.02.22/掲載)
For Love

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