恋愛英語 | ナノ


That's what I'm here for.

あれから、近くのドゥオモへ行った。数年前に改装を終えた大きな教会はクラルの興味を誘った。背の高い大聖堂内。天井迄あるパイプオルガン。13編のステンドグラス。聖遺物が展示された冷たい地下。細やかな彫刻。細長い螺旋階段を昇り、目が回り始める頃に行き着いた石造りの屋根の上。
飛び梁の下を歩いて急な階段を上り、聖人達の前を横切った先に居るサンタマリアの前で彼女の祈りを見届けてココは、見晴らしの良い所迄クラルを誘った。

手前の趣き深いアーケードから伸びる煉瓦の街を見下ろせばクラルは吹き抜ける風で髪を遊ばせ、感嘆の吐息を漏らす。澄み渡る紺碧と歴史的価値の高い建築物とのコントラストはまるでポストカードの世界だった。

上から次に向かう場所を決め、ココとクラルは足場に気を付けながら元来た道を歩いた。ゴンガラゴンと、後ろで大鐘が鳴って咄嗟に、二人は耳を塞いだ。
目が合うと笑って、気付いたら手を繋いで螺旋階段を下っていた。

トラムを乗り継ぎ、2件のバールと1件の路上花屋の前を歩いて美術館へ行き、隣国の素晴らしい絵画を見た。

ベラスケスの最高傑作の前では描かれている人物の視点を探した。

「あ、ここだ」
「え?」
「ここ。この位置だ、」
「失礼致します。、あら。本当。本当に視線が集まるのですね」
「…そう、だね」


ぺこんとお辞儀をしてココの目の前に立ったクラルとの、距離の近さにココは、どきん。とした。

引っ付いていないのに体温が分かる。なんて破壊力だ。ココは初めての感覚にどきまぎした。どう言う、原理なのだろう。

視覚を反転させたココの目に、自分の電磁波とクラルの電磁波が混ざって、反発し合うどころかくるくる折り重なっているのが視えた。あ、これ、相性がいい証拠だ。冷静な部分でそんな事を考えて、やべーやべー嬉し過ぎる。感情的な部分で歓喜した。クラルはデジタルカメラを弄り始めて気付かない。コンパクトなコーラルカラーボディに収まった大きなディスプレイを眺めて、あれ?上手く目線が集まりません。と、独り言。あ、そうか。今の自分の位置と目線の高さにすればいいのね。なんて思って頭と足を一歩引いた。当然、


「わ、」
「あ、」


後頭部が、ココの厚い胸筋にぶつかった。


「…すみません」
「いや。頭。大丈夫かい?」


頑丈な頭蓋骨と鍛え上げられて張った筋肉との出会いに、もの凄い音がした。どのくらいかと聞かれたら、人が振り返った。


「私は、大丈夫ですけれど……ココさんは?痛くありませんでしたか?」
「あ、ああ……」


ココの返事を聞いてクラルは「良かった……」と安堵の吐息を漏らした。カメラばかりに気を取られて周りが疎かになっていたと苦笑混じりに説明した。ココは、「僕も察せなくてすまない」と苦笑し返した。けれどクラルが見せる表情とは全く違う類いの物だった。心臓が凄くどきどきしている。返事を絞り出すのさえ精一杯だ。だって、ココに向き直ったクラル。

彼女の距離が、ココにとっての近いを通り越していた。

パーソナルスペースに彼女が居る。なのに不快のふの字さえ浮かび上がらない。寧ろ手を回して抱き込める扇形上にクラルが居ると言う事実は、不思議とココの胸の奥を軽やかにした。
ココからしたら低い背に、華奢な肩。ぶつかった一瞬に、ふわりと揺れたクラルの髪から漂う甘やかなブーケ。成熟したワインを口広のワイングラスに注ぎ落とした時に味わう華やかで胸躍る香りと紛う物が、ココの鼻先をくすぐった。そう言えば、百の花の香りが何とかって言うワインがあったな。…アンリ・ジャイエだったか、いや違う、D.R.Cだ。ヴィンテージ90のリシュブール。そう言えば、ワインも元のルーツは修道院だったか。クラルと、よく似ている。
ココは、ちょっとトランスした。


「でも本当に、申し訳ありませ……」


クラルはカメラをポーチへと納めココを仰いだ所で、後に続く言葉を忘れた。

何かしらこの距離。とっっても近い。

クラルは言葉を無くした。

絵画に夢中に成り過ぎて気付かなかったが、ココのアスリート顔負けの体躯と長身で、高い天井から落とされた柔らかなライトが遮られている。クラルを見下ろすココ。彼の距離が、クラルにとっての適切な距離を超していた。これは、ちょっと、近付き過ぎたかもしれません……。
心無しか、目の前の仕立ての良さそうなブラウンのジャケットにグリーンのシャツの奥に潜んだ体温が伝わってきそうだった。と言うかそもそもココが少しでも腕を回したらクラルなんてすっぽり包まれてしまうだろう予感に、少し、頬が火照った。無意識にカメラをポーチ毎握り締める。手が、汗ばんでいる。喉元を晒す程見上げる長身。ちょっと、威圧感。でも、微かに香る男の香りに、胸が高鳴ってどきどきした。それより、それ以前に。

クラルを真っ直ぐに見下ろすココの、美しい二つのオブシディアンが持つ魔力にクラルは、目を逸らせなくなった。

身体も動かない。動けない。だって、その目は…何かしら。少し潤んで、まるで風邪を引いた人みたいで…熱っぽいっ瞳ってこう言う事を言うのかしら。凄く、恥ずかしいより、むず痒いのに。嬉しいと思ってしまうなんてどうしてかしら。
お顔から、目を逸らせないなんて。


「………」
「………」


人の囁きさえ響く館内はしっとりと静かで、一枚窓から差し込む光りはしんと温かい。けれどどちらも、二人には届かなかった。二人の間には如何とも形容し難い雰囲気が漂った。

そう言えば、いつかにもこんな事があったわ。

クラルはぼんやりとした忘我を味わう手前で記憶を思い返した。あの時も、何故だかこんな雰囲気になって、でもお互いは未だこんなに親しい関係でなかったから…此処迄心臓が煩い事も無かったけれど…。そう言えばあの時は、身長差があり過ぎるせいか立ち話はお互いに声が拾い辛くてそれでつい、話している間に近くなってしまって……私、近付き過ぎて、

ココさんの足、踏んでしまったんじゃないかしら。

クラルは咄嗟に床に視線を投げた。視界を捕えたクラルの片足は案の定今日も、ココの革靴を踏んでいた。


「す、すみません!」
「え?あ、」


クラルは咄嗟に足を引いた。「私、また。踏んで、」「え?ああ、ごめん」「いえ、謝るのは私の方で!本当に…何と申し上げたら、」「別に気にならなかったから」「そう言う問題では、」「大丈夫だよ。クラルちゃん、軽いから」さっと、クラルの頬に朱が走った。だから、気にしないでくれ。と笑うココに、精一杯言葉を振り絞る。


「そう言う、問題でも、ありません…」


か細い声は、二人の珍騒動を諌める職員の咳払いに重なった。次の絵を見に行こう。と、促すココの言葉に頷きながら、もう一度、すみません。と口にした。

ココの足を踏んでしまった事なのか、静寂が絶対のこの場で声を上げてしまったはしたなさを恥じてなのか、それとも、ココの台詞に不本意ながら喜んでしまった女心を恥じてなのか。口にした本人でさえ、分からなかった。


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