仄かに揺れる、微かに灯る
僕は、君への評価を改めるべきなのかもしれない。
年を経て君は、僕に甘えてくれるようになった。頼ってくれることも増えた。
例えばある日の皿洗い(君は手持ち無沙汰になったんだろう)シンクの前に立つ僕の背中に不意に抱き着いては僕の胴回りをその腕で測って「あなたのお背中、とても落ち着きます」なんて楽しそうに喉を鳴らしていた。(どうせなら前に来て欲しいなあ。と、言えば君はふふふと微笑って、それはエプロンのお仕事ですね。と、僕の背中、肩甲骨の真ん中に、キスをした)それに、パスタペーストの蓋が堅くなってしまっていた時は「あら、大変。こちらあなたじゃないと、言う事を聞いてくれそうにないわ」くすくすと笑い、
「貸してごらん」
「はい、お願いします」
僕の力を気負いなく求めてくれるようになった。
だけど君は相変わらずでもあったね。育成環境、と言うのかもしれない。自立心が強く、弁えの癖はなかなか抜けないのだろう。仕事は変わらず続けていた。僕が忙しくしている日の瓶の蓋はゴム手袋を使って開けてしまうし、洗い物は2人で手分けしたね。
「ご準備は終わりました?」
「ああ。後は昨日干したコートを取り込むだけだよ」
シンクの前で、他愛なく、会話した。
「今回は、何日ほどお出かけですか?」
「まあ、2週間も無いよ。14日には戻る」
「でも、あなたからしたら十何年」
「君も来るかい? ちょっとない経験が出来るよ」
「はいはい」
シャボンのいい香りがする中、肩を竦めて、笑ったね。
「困った方。ご一緒出来ないこと、ご存知の癖に」
思えば君は、僕に我儘を一度も言わなかった。頼ってくれるようになった。甘えてくれるようになった。なのに、僕を敢えて困らせたり試したりする事は口にしなかった。
そして僕が旅に出る日の朝は、快く送り出してくれた。
「じゃあ、行って来るよ」
君は、はい。と、一呼吸置いて、
「いってらっしゃい。食運をお祈りしています」
気持ちの良い声で、すっきりとしたいつもの姿勢で僕を見上げた。
搭乗ゲートへ向かう、待合室の前だ。誰もが気を利かせくれたのだろう。僕ら以外、居なかった。ラボから見送りに来てくれた君は白衣は脱いで来たと言って、今朝見たままに柔らかい素材のニットセーターと、分厚いスカートを身につけて居た。
「お気をつけて」
「うん」
僕はいつものように君を抱き締めた。君の顔を掬い上げてキスをした。君は、いつものように喉を鳴らすように吐息で笑っていた。指輪が光る小さな指先が、僕を抱き締め返してくれた。
「なまえ」
「はい、ココさん」
縋る力に似た柔らかな圧が、君の好きな僕の背中を捉えていて、君は僕の腕の中にいた。名前を呼ぶと、幸せそうに眦を細めて笑っていた。
この顔も姿も暫く見納めかと思えば途端に、寂寞とした感情に支配されるがこの道を選んだのは僕だから今更、離れるのが寂しいよ、君は? だなんてこの口から言えるわけが無い。余りにも不適切だ。占い師一本でも立てられた生計を、探究心と好奇心で覆した。その決定を、君には過程の相談なく、提示してしまった。
君は、初め、驚いていたね。目を見開いて、ほんの少し眉間を強張らせたね。でも君は直ぐに微笑んで、まるで知っていたように、受け入れてくれた。今も、受け入れ続けてくれているのは、孤独に強い人生を歩んでいたからだろう。(僕はそんな君の器に、好意と善意に一生を以って応え続けていきたい。珍しくて美味しいものは全て君と共有したい)
暖かい色の波長はいつも淀みない型をしている。離れ難さについ、腕に力が篭る。
「……お時間はよろしいの?」
やがて君は、僕の目をじっと見つめたまま首を傾げたね。嗅ぎ慣れた甘い香りがして、僕は君を見下ろして微笑んだ。
その時に気付いたのは、必然だったのかもしれない。本当はずっと見えていた。見て見ぬ振りをしていた。
「ああ……」
いつからだ。
「大丈夫」
君から滲んだそれは、瞬きの間に隠れて消えてしまう程の変化だった。清浄で淀みない君の電磁波。その、未来層が、羽撃き、濁り、揺れた。その一瞬に、気づいてしまった。僕をつぶさに見つめている、君。僕は、君への評価を改めるべきだ、と。
「君の、その記憶が薄れる前に、帰って来るよ。−−必ず」
君は虹彩を揺らめかせた後に、気恥ずかしそうに、嬉しそうに、困ったように、戸惑いがちに、頬を染めて、寂しげに、目を細めた。初めて見せる表情を、とても自然に行った。
「……あ、ら」
僕は、君のことでなら僕は、分からないことなんて何も無いと思っていた。知らない表情や電磁波の色相など無いと、確信していた。なのに、
「気長に、お待ちしておりますね」
「……お土産、沢山捕ってくるよ」
君は、いつから、そんな笑い方をしている。
仄かに揺れる、微かに灯る。
It’s moving slowly, it’s lighting a little.
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つめたくて、ほのかにあまい。の、前日譚。こちらはココさん視点。
いつか冷たい夜が降る。よりも、ココさんですから、周囲への情報量や付随する記憶が多目です。
ここから、ココさんが予告なく早く帰ってきたストーリーへと繋がります。気掛かりだった。
(2018.09.30/掲載)