霞始めてたなびく
昨晩まで降り続いていた雨は象徴に目が覚めると水蒸気となり霧となり山々の間を白く色付けている。
いや、これは霧というよりも霞か。
「きれい・・・」
「何が」
何ともその場の雰囲気というものを感じ取れない人間だと思う。
ある意味敏感な人間であるはずなのに、こういうことには時々疎い。
「何がって、霞がだよ」
「かすみ?なに?かすみ?」
昔から1人で長らく旅をすることが多かった私は1人でいる分、周りにあるものだったり見えるものには人一倍敏感になったと思う。
たとえば雪が太陽に照らされ、まるで宝石のようにきらきらと輝く粉雪だったり、山々に虹がかかるような奇跡的な瞬間もそう。
それだけじゃなく、普通の景色にも感動を感じることもたくさんある。
海辺に見つけるきれいな石や貝殻にも、暑い砂漠の中のオアシスの青さにも。
それは人間としてすばらしいことだと思うので、私は心から自慢できる。
「霧とは違うんだよ」
「ああ、あの霧のこと言ってんの?」
「だから、あれは霧とはちょっと違うんだから」
バウルから降りると少し水を含んだ草木を踏み、足下がぬれた気がしたがあまり気にならない。
雲で太陽が隠れた早朝は、肌寒く寂しい感じがするけど、この神秘的な空気は好きだ。
私が歩き始めるとユーリは私を追ってバウルから降り、一緒に歩き始めた。
「簡単にいうと、霧と霞の違いは霧の方が濃くて、霞の方が薄い」
「ふ〜ん」
「なんか興味なさそうだね。もう1ついうと、霧は秋、霞は春。だからこの山には春がきてんの」
私はそのまま足を進めていくと、草木の間から顔を出す春の芽を見つける。
「ほら、ふきのとう。これで天ぷらするとおいしいんだから」
「へー、じゃあそれとってこうぜ」
「なんか急に興味でてきたね」
しゃがみ込んだ私の横にユーリも同じようにしゃがみ込んだ。
ふきのとうはまだ小さいけど鮮やかな緑に私は力強さを感じる。
命を感じて自然界の力を感じる。
「ナマエ、」
「なに・・・」
ふと振り向くとユーリの顔が近かった。
と思ったときには既に唇に暖かさがあり、私はただ驚いて体を固くした。
「は・・・」
ゆっくりとユーリの顔が離れていくと、私はただ驚いて放心状態で、ユーリはというといつものユーリで、私の顔を数秒見つめていたかと思うと「ふーん」と言って立ち上がり、元来た道を引き戻し始めた。
私はふきのとうの目の前で一人取り残される。
な、な、なんだったんだ、さっきのは
「ちょ、ちょ、ちょ、ゆ、り」
「言葉喋ってくれ、言葉」
「いや、ちょ、そ、そんな、なんでれいせい・・・」
「お前は動揺し過ぎ」
立ち止まって振り向いたユーリと視線が合ったが、私は急に恥ずかしくなって視線を外した。
どうすればいいのかわからなくなる。
「ナマエ」
「い、や、な、なに?」
「さっきまでのナマエはどこ行ったんだよ」
「い、し、知らん、知らない・・・」
シャリ、とぬれた草の上に足が踏み込んだ音が聞こえ、ハッと顔を上げると引き戻しかけたユーリがまた戻ってきた。
私は一気に動揺してあたふた仕掛けたが、それもなんだか恥ずかしてふきのとう再度向き合うと足下へと視線を向けた。
やがて足跡が近くなってきたと思うと、視線の横にユーリのブーツが入り込んできた。
ふっとユーリの気配が近くなり、それはユーリが私の横にしゃがみ込んだからだとわかったが、ユーリの方へと視線を向けることができない。
「お前、思った以上にだめだな」
「何が?」
「こういうこと」
「ど、どういう?」
「いや、素直にキスしたいと思ったからキスし・・・」
「ちょ、ちょ、ちょっと待とう!」
ここでやっとユーリと正面から向き合うことができた。
心臓が飛び出しそうだ。
「わ、私今、よくわかんないんだけど、いろいろ」
「だから、俺がキス・・・」
「ちょっと!ま、ま、まって、だから、それが、よくわかんない」
「俺こそ動揺しすぎてるお前にどうすればいいのかわからないんだけど」
恥ずかしいんだけど、もちろんキスしたことも恥ずかしいんだけど。
私が今恥ずかしいのは、ユーリからキスをしたってことだ。
つまりだ。
それはなんとも思ってない人にはしないことであり、つまりそれは・・・。
勇気を振り絞り、ユーリへまっすぐ視線を合わせると、優しく微笑むユーリと目が合った。
「俺は素直に霞も確かにきれいだと思ったけど、ナマエもきれいだと思ったからキスしたんだけど」
微笑むユーリがきれいだと思う私も、今ならキスをしてもいいかなと思った。
霞は少しずつ薄くなっていき、雲の間から朝日が差し込み始めている。
カロルの声を背中に感じ、それが助け舟だと感じる私は臆病者だ。
「い、いまいく!」
私はほっとして立ち上がり、駆け寄ろうとした瞬間、ユーリに腕をつかまれた。
ひっと声を出した私にとどめの一言が放たれた。
「逃げられると思うなよ」
ユーリの顔は美しく、それでいて恐ろしく、私は逃げられる気もしない。
いや、むしろ私は捕まってしまいたかったのだろうか。
まだ少し、ひやりとする空気の中、ユーリに掴まれた腕は熱を帯び、その熱はこれから起こることを予感させるような熱さだった。