魚氷に上る
「許せない」
名前は俺の隣に膝を抱えたまま地面を睨みつけた。
そしてその許せないことが頭の中にまとわりつくのか、さらに険しく眉間にしわを寄せる。
「絶対、許せない」
吐き捨てるようにつぶやいた言葉は女優も黙るような迫力を持ち合わせているが、その一言をどれだけつぶやこうと何も変わらないし、聞いているのは俺だけだ。
それに彼女の「許せない」は今にはじまったことではないし、珍しくもない。
俺は彼女に気づかれないように小さくため息をつき、さてと頭の中で1つ意気込んで座り直す。
名前の方へと体をゆっくり向けると、それに答えるように、少し目が潤んだ名前もこちらに顔を向けた。
名前は感情に左右されやすい人間だ。
それは名前にあって間もない頃にすぐ気づけるほどの典型的なそれで、よく泣いたし、よく笑った。
そして同時に人情に弱く、とても敏感なところも持ち合わせていた。
そう、今のように誰かのために怒りを露にしたり、涙を流したりといった行為はそう珍しいものではない。
「みーちゃん、ホントにタケくんのこと大好きだったのに。みーちゃんがかわいそすぎる」
「うん、そうだな」
「だってみーちゃん、来週末タケくんが行きたいっていってたライブのチケット、すっごく苦労して取ったんだよ。そのときみーちゃん、ホントうれしそうにしてて、すっごく楽しみにしてたのに。来週末、ふたりはすっごく楽しくなるはずだったのに」
「その通りだなぁ」
「その通りだよ。みーっちゃんがほんっとにかわいそう、かわいそすぎる」
ああ、もう大きな瞳から涙があふれそうだ。
普通ここで男はそんな涙を浮かべた女を抱き寄せて慰めてやるのが大正解なのだろうが、この女はそれをいやがる。
良くも悪くも名前は強いのだ。
友達を誰よりも大切にし、誰よりも思い、そして誰よりも傷つく。
しかし傷ついたとしても、自分一人で立ち直ってしまう、男泣かせな女なのだ。
パッと見ると俺の立場がないのだが、でも俺の存在は自分でいうのもなんだが大切な存在でもある。
名前はただ隣にいてやるだけで十分なのだ。
しかし、そうも言っていられない。
逆に、俺自身にとっても大切な存在でもある。
「隆也、みーちゃん大丈夫かな?」
「名前がついてるんだから、大丈夫だろ」
「だったらいいな・・・」
そう言うと、きれいに澄み渡った空を見上げた。
「空、よく晴れてるけどまだまだ寒いね」
「まあな、まだ2月だし」
ふと話がそれて、そろそろ戻ってきたかと思ったが、まだまだ感傷に浸るようだ。
「男ってサイテー」
「そういうやつもいる」
「大丈夫だよ、隆也は信じてるから」
「・・・ありがとう」
「でも分けわかんない。彼女いるのに違う女と寝ちゃうなんて、ばっかじゃないの」
「そんなバカもいるってことだよ」
「ホントバカだよ。それなのにまだみーちゃんのこと大切だとか言うし、男ってサイテー」
ついに真実の右の瞳から大粒の涙が一粒、ボロリと落ちた。
しばらくすると今度は左の瞳から、涙が一粒。
ああ、きれいだと思う。
「男って暖かい何かを見つけちまったら、今まで彼女ひとすじだった固い心臓の氷がその暖かさに割れて、そのまま飛び出してしまうやつもいるんだよ。どーしようもない、春に浮かされた馬鹿が」
目元をごしごしとこすると、名前は俺を見上げてきた。
「ホント、サイテー。タケくんとは一生口聞かない」
一生とか口聞かないとかどれだけ子どもなんだよと突っ込みを入れたくなるけど、そんなところもかわいいと思ってしまう俺も、相当馬鹿なんだろうと、心の中で浮気をしたというその馬鹿な男をただ単に笑うこともできない。
「男はみんな、馬鹿なんだよ」
すべての男に馬鹿という称号を贈る、もちろん俺にも。