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その陰鬱な事件の始まりはネオンの光が表通りを照らす代わりに夜の全てを引き受けたかの様な路地裏だった。これまでに類を見ない残虐さと美しさを保ったままクラブの裏のゴミ箱に頭から突っ込まれていた遺体は、慣れている筈の刑事達の目さえも背けさせた。顔は綺麗なままに、眠る様に閉ざされた瞼は本当にこれが死体かと疑問を抱かせる程であったが、女の身体には死を連想させるには十分過ぎる程の欠損がある。比喩でなく大きく開いた腹部は、滴る赤に濡れてまるで口の様だった。店に属さず客を引く売春婦であるらしい女は、昨夜道に突っ立っていたところを襲われたのか、不幸なことに目撃情報は一つも無かった。迷路の様に入り組んだ裏路地を夜中に歩いている者など、売春婦か薬の売人か、その客くらいなものだ。むき出しの鉄パイプや電線が仰いだ狭い空を幾つもに引き裂いている。昼間でも薄暗く、アルコールと吐瀉物の饐えた臭いを放つ路地は、華やかな街の恥部ともいえる部分だった。警察犬でさえ嫌がりそうな悪臭が其処彼処に満ち満ちており、善良な市民は出歩かないだろうとさえ思える。

スモーカーは唇を噛み、部下に幾つか指示を出してから路地裏を後にした。黄色い立ち入り禁止のテープを潜った途端に押し寄せるマスコミと、好奇心に目を輝かせた野次馬の間を掻い潜って歩いて行けば市民の様々な会話が耳に入ってくる。普段と変わりない日常に彩られた筈の表通りは、誰も彼もが身をもって恐怖を経験したかの様にざわついていた。今日も南海岸に位置する街は明るく、からりと乾燥した空気が喉の水分を奪っていく。そんな中を野次馬達と反対方向に、酷く苛立った様に歩いていくスモーカーに誰もが道を開けた。誰がどうしてあんな行為をしたのか、態々腹部だけに損傷を与えた意味は、考えても頭がこんがらがるばかりでそれらしい解答の一つにさえ辿り着けない。

ふと顔をあげて周囲を見渡せば、殺人のあった場所から随分と離れて仕舞っていた。此処まできてしまったら手掛かりも何も得られたもんじゃないだろう、溜息を吐いて一歩踏み出そうとした。その瞬間、腕を強く引かれてスモーカーはバランスを崩した。その場でたたらを踏む。筋力と体力だけには自信があったスモーカーだったが、不意を突かれたのと己を引く力が予想外に強かった為によろけてしまった。

「危ない」

耳元で鳴ったその声は、ぞっとするほどに低く、そしてとろける様な甘さを孕んでいた。ぞくりと震えた鳥肌を誤魔化すように慌ててスモーカーはその人物を振り返る。掴まれた腕はいとも簡単に振りほどかれた。何だ、と低く問う。刑事という職業故か、元々の性格からかつい高圧的な言い方になってしまう。同僚に何度窘められた事だろう。けれど目の前の見知らぬ男は、そんなスモーカーの無礼な態度も気に留めず、小馬鹿にした様に笑った。
「目は付いてんだろう?死にたいのかね」
「何」
「…自殺志願者だったなら話は別だが?」
そう言われて初めて、己が車に轢かれる寸前だった事に気が付いた。車道に踏み出し掛けていた足を、そっと歩道の上へと戻す。車通りの多いこの辺りで左右の確認もなしに交差点を渡ろうなど、自殺志願と捉えられても仕方がない。苦虫を噛み潰したような渋面をつくるスモーカーを見て、相手は面白そうに笑う。不快気に眉を寄せれば、失礼、と言ってまた笑った。刑事の性か、スモーカーは目の前の男をじっくりと観察した。男はこの暑さだというのに、黒のスラックスに革靴を履き、白いシャツを第一ボタン迄留めていた。左手には黒い皮の手袋、素肌を晒した右手には薬指を除く全ての指に高そうな宝石を嵌めた指輪が乗っている。そうして、一瞬ぎょっとする様な大胆さで、大きな縫合跡が顔を二分する様に這っている。どんな怪我を負ったらこの様になるのだろう、酷く痛そうだった。不躾に上から下へとジロジロと視線を動かしていたスモーカーに男は不快感を顕にするでもなく、一言尋ねた。
「君は此処で何を?」
スモーカーは答えに窮した。考え事をしながら歩いていて、気がついたら此処に居ました、じゃあ余りに格好悪い。スモーカーは仕方なく刑事だ、と名乗った。それを聞いて男は一瞬おや、と驚きに目を開いてぱちぱちと目を瞬いた。
「それで、その刑事さんが此処にいるって事は何かあったのかね?まさか休憩時間じゃないだろう」
「…事件の捜査をしている。昨日の夜、この辺で不審な物や車、人を見なかったか?」
「いや…俺はこの辺の住人じゃねぇから、昨日の夜についてはちょっとわからねぇな」
形式ばった問い掛けに男は当たり障りの無い答えを返した。それが嘘か本当かはわからないが、行き当たりばったりのこんな展開でまさか価値のある情報が得られるなどスモーカーは思っていなかったので男の答えをそのままのんだ。

男はクロコダイルだ、と勝手に名前を名乗りスモーカーの横に並んで歩みを合わせてきた。何処へ行くんだ、と問えば知り合いに会いに、と答えた。方向がたまたま一緒だったのだろう。歩いている間中、見た目とは裏腹に男は良く喋った。スモーカーが殺人課の刑事だと知ってから、その仕事内容を良く訊ねてきた。例えばいま迄どんな陰惨な現場を見てきたのだとか、耐えられなくて転課を希望する人はいるのかだとか。あまりにうるさく訊ねてくるものだから、元来口数の多い方ではないスモーカーは辟易して仕舞った。
「嫌だな、そんな顔をしないでくれたまえよ。仮にも君の命の恩人じゃあないか」
それが顔に出ていたのか、クロコダイルは揶揄うようにそう言った。目は年甲斐もなく悪戯好きの子供のように笑っている。
「…元々こう言う顔だ」
ムッとしてそういえばクロコダイルは一頻り笑ってそれから口を噤んだ。クロコダイル喋らなくなれば、スモーカーの方も特に話したいことも聞きたいこともなかったので沈黙だけが落ちる。二人の間には葉巻の煙だけが棚引いて、空に霧散していく。そろそろ自分もオフィスに帰らなければ、めぼしい情報も得られなかったし。そう思っていたときにちょうどタクシーを発見し、スモーカーはそれを呼び止めた。きぃ、と音を立てて歩道に止まったタクシーの黄色い扉を開いて後ろを振り返り、クロコダイルにお前はどうする、と訊こうとして開き掛けた口からぽろり、と葉巻が落ちた。気が付けばそこにいたクロコダイルはまるで煙に巻いた様にするりと消えている。どちらのものともわからない白い煙がただただ立ち込めているばかりだった。

何か腑に落ちない、不吉だ、と珍しく非科学的な考えがスモーカーの中に沸き起こったものの、スモーカーは一晩寝ればそのことをすっかり忘れて仕舞っていた。その日から数えて六日目に、第二の事件が起きるまでは。


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