冷たい逢瀬/鰐華

彼の指先から伝わる温度のない冷たさが愛おしくて堪らないのに、同時にその冷たい肌が酷く哀しかった。何故だ?と低い天鵞絨の声が理由を尋ね、どうしても交わらないからだと答えた。私がいくら貴方と触れ合っていても、薄い皮膚一枚が混ざり合うことを不可能にしている。私たちは温度という些細なものさえも分け合うことが出来ない。唇をそう震わせれば、彼は意地悪くいつものように、何を今更、と笑った。鼓膜を叩く独特の笑い声は良く通り、部屋の隅までいって反響する。豪奢な家具ばかり詰め込んでいるのに、それでも広過ぎるこの部屋は酷く寒々しい。表向きの彼の居室とは違った、秘されたこの寝室には彼が選び抜いた調度品が並ぶ。此処は言うなれば彼の腑で、私は彼に食べられてしまっていた。それはもう頭からがぶがぶと、一切の心も残さずに彼の牙は私を引き裂いて食い千切って咀嚼する。ぺろり、と舌を舐めた彼のお腹の中がこの世で一番安全であることを私は既に知ってしまっていた。獰猛な牙と忍耐強い思慮を持ったこの鰐は、砂漠の生態系の頂点に立っている。
「もし体温までもが皮膚を越えて交わってしまえるのならば、お前と俺がこうして向き合っていることもなくなるだろうな」
窓硝子の、水槽の向こうで巨大な鰐がざばんざばんと泳いでいる。海王類すらも食べてしまう大きな口からは真っ白な歯が覗いていた。鰐達は男に非常に良く懐いていて、彼が軽く硝子をノックするだけで犬の様にきゅいきゅいと喉を震わすのだった。真昼でも薄暗い此処はまるで海中の様で目眩がする。自ら望んで部屋を沈めた男の体温の冷たさも、やっぱり彼が望んだ事だったのだろうか。誰かと、私と分け合う為に。とそう思うのは些か思い上がりが過ぎた。恋という甘い夢を見るには私はもう大人だったし、彼もまた色恋の為に何かをする事などしない人だったから。
「一つにならないからこそ、お前はこうして俺の腕に触れていられる」
低い声が耳朶を擽り、乾きばかりを与える右手に沿わしていた私の腕を、彼は包む様に握った。ごつごつとした男の掌は大きく、私の細い手など容易く折れてしまいそう。普段なら其処に鎮座している筈の、肌よりも冷たい貴金属はベットサイドに纏めて放られている。赤と青と白と翠と。それなりの値がするものでしょうにーーそう揶揄って笑えば、欲しいなら勝手に持って行けばいい、と見当違いな答を返す。そうして不意に深く口付けられて、反論の言葉を見失った。冷たい唇が未だに熱を持った侭の私の唇を割り裂いて、大きな舌が歯列を舐めとり、口の中を思う存分堪能する。漸く離された彼の唇が私の名を、本当の名を象れば、キスに依って酸欠に陥った頭がじんわりと痺れた。この感情の名前は知らない。知らない筈だった、今迄の十数年を男はいとも簡単に無にしてしまう。
「お前が欲するのならば、俺の冷たさはお前のものだ、ニコ・ロビン」
喉の奥がきゅう、と詰まって頭の中に空白が襲い掛かる。男の言葉にぐらぐらと揺さぶららて、その甘やかな響きを持つ衝動に全てを任せて身を投げたくなった。柔らかさも、優しさも、安寧も、幸せに繋がり得るものの全てが私には必要のないものだった、とそう自身に言い聞かせる度に、せせら笑っているのもこの身体に棲む私で、そう自覚しているだけに、最早逃れる事など出来なかった。私に幸せになって欲しいと、彼等が生きていたならそう言っただろう事も、私にはわかっている。長い長い逃亡生活の果てに擦り切れた精神を繋ぐ為に、その答えから目を背けた事も。
「案外ロマンチストなのね、サー」
肌を滑る彼の掌から、自分の腕を引き上げると私は精一杯に強がってみせた。か細く残った最後の糸を必死で守り続ける私を、自分で降った話題を自分で切り上げた私を、彼はその金色の目で見詰めて、何を思っただろう。硝子の向こうで巨大な鰐が大きく口を開いて食事を催促していた。





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