My heart in your hand. | ナノ


▼ 22

昨夜遅い時間まで本を読んでいたせいで頭が少し重かった。眠気を払うように瞬きをしながら、朝の校舎を歩く。
夜更けから降り出した雨は静かに降り続いていて、窓に幾つもの水の筋を作っている。

「そういえば、もうそろそろ期末だねー。化学の範囲バカ広くない?」
階段を上りながら、岩見がふっと思い出したような口調で言う。
「わかる。数学も、今の単元全然分かってないからヤバい」

各教科でも範囲が発表され、課題が指示され始めた。数学の課題は大量だ。苦手だから尚の事時間がかかるだろう。憂鬱だ。
一瞬後に、そう感じた自分を変だなとふと思った。

中学のときは、テストなんて気にしたこともなかった。何もしなくても解けるような最低レベルのものだったが、それとは関係なくどうでもよかった。当日までテストだと知らずにいたこともある。けれど、今はごく当たり前に勉強をしようと考えているのだ。環境が変わったからだろうか。
客観的にいい変化であることは分かるが、まだ馴染んでいないような変な感覚だ。

「数学は教えてあげられるかもだけど化学はちょっと無理かも。計算意味わかんなくね?」
「岩見がわかんなかったら、俺もうダメじゃん」
「ああん、そんなこと言わずに! 協力しあって一緒にがんばりましょうよー」

何ともない顔でその口調はどうかと思う。
「そうね、頑張りましょう」と我ながら珍しくノッてみたら、ちょっと気持ち悪すぎて耐えられなかった。今の無し、と言いながら笑うと、隣でもはじけるような笑い声が上がった。ちょっと報われた気分だ。


岩見とAクラスの前で別れたところで、少し先に見覚えのある後ろ姿を見つけた。足を速めて隣に並ぶ。

「はよ、岸田」
「おす……」
「―お前大丈夫か? なんでそんな疲れ切ってんの」
挨拶に応じた岸田の反応は緩慢で、顔には疲労が浮かんでいる。ぎょっとして思わずその顔をまじまじと見つめてしまった。そういえばいつもは颯爽と歩く印象があるのに、今日はどことなくふらふらしているし。

「朝から風紀のミーティングあったから。期末の後、球技大会あるからその関係でバタバタしてる―」
知らなかった行事の存在を告げられて、へえ、と目を瞬く。そんな俺に岸田は「っていうのもあるけど」と欠伸まじりに続けた。

「風邪が委員の中で蔓延しててさ。昨日ちょっとやべえかもっつってた委員長が、今日はついに休みだし。決めなきゃいけないことばっかなのに、休んでる人多いからやべえ」
「え、休み?」

困ったふうに告げられた内容で、俺が気を取られたのは風紀委員会の窮状より委員長が休みというほうだった。

「ん。聞いてないのか? 江角は委員長と仲よくなったみたいだから、もう知ってると思ってた」
「……いや、うん、知らなかった」
「そうか」
俺は平静を装いながら交互に前に出る靴先を睨んだ。
先輩が体調崩してたなんて知らなかった。なんで教えてくれなかったんだ、と責めるような思考をしてからはっとする。別に、先輩が俺に報告する義務なんてない。なんで少し苛立っているんだ、俺は。
軽く頭を振って自分を諌める。

「休みか……心配だな」
「ああ。早く治るといいよな」
気を取り直すように呟くと、岸田が真面目に応じてくれた。先程の俺の反応を訝しんだりはしていないようで、よかった。

俺のときは、岩見やキヨ先輩が世話を焼いてくれたけれど、先輩は誰か頼れる人がいるのだろうか。―いや、こんなこと考えるまでもない。当然、たくさんいるに決まっている。


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