My heart in your hand. | ナノ


▼ 16

次に目を覚ましたとき、部屋の中は静まり返っていて暗かった。空気が湿っぽくて温い。澱んだ空気の塊が上にのしかかっているようだ。布団を押し退けて寝返りをうつ。体は依然として動かすのが億劫に感じるような気だるさに満ちていて、じっとりと嫌なふうに汗ばんでいた。

先輩が来てくれたことが夢だったような気がしたが、サイドボードには彼が買ってきてくれたミネラルウォーターが置いてあった。手に取ってくるりと回す。

立ち上がって窓を開けると、室内よりは幾らか冷えた空気が肌に触れた。ふっと息をついて、深く吸う。湿った空気からは雨と草に交じってどことなく花のような匂いがした。見える範囲に花は咲いていないようだから、もしかしたら別の何かの匂いなのかもしれない。
窓枠に手をついてぼんやりと緑の中に花の色を探していると、背後のドアを開ける音がした。体勢を変えぬまま振り返る。隙間から差し込んだ白い光が眩しくて反射的に目を閉じた。

「―エス? なにしてんの」
声を聞き、瞼を上げる。ひょっこりと部屋のなかを覗き込んだ岩見が、ベッドに寝ていない俺を不思議そうに見ていた。


▽▽▽

「お前、なんで先輩に俺が休んでるって言ったの」
スープに浸って柔らかくなった小さなパンをスプーンで口に運びながらふと尋ねる。向かいに座った岩見は不思議そうな顔をした。

「先輩が来てくれた」
「え! いつ? え、もしかして昼休み?」
大袈裟に驚かれる。岩見に言われたから来てくれたのかと思っていたのに、違ったようだ。岩見は先輩の行動を知らなかったらしい。「じゃああの後行ったのか……」と呟くのを聞いて問いかける視線を送る。

「や、あのさー三限の終わりに、廊下で委員長に会ってさ」
身ぶり手振りを交えて話す岩見によると、友達との会話で「今日はエスがいないから俺も皆と食べる」と発言したのがキヨ先輩に聞こえていたらしい。
目が合って、顔見知りだからと会釈した岩見を呼び止めて、俺がいないというのは何か理由があるのかと問うてきたのだという。
それで、風邪で休みだと答えた。それだけ。確かに、その後わざわざ寮に行くとは思わないだろう。岩見の驚きはもっともだ。

「―なんとなく、岩見がなんか頼んだりしたのかと思ってた」
「まさか! そんなことお願いするほど親しくないから」
ぶんぶんと手を振る岩見。俺はパン粥の盛られた白い皿に目を落とした。先輩が来たのは昼休みになって間もない時間だった。
本当に、心配してくれたのだなとよく分かる。色々用意して、急いで来てくれたのだ。それを思うと、じわりと胸の辺りが熱くなる。思わず口元を手で覆った。

「どうした?」
「……なんか、心臓のところがぶわってなった」
手をそのままに出した声は少しくぐもっていてもわかるほど困惑が表に現れていた。ぱちりと目を瞬いた岩見が笑う。

「あは、エスが擬音表現するの珍しい。嬉しいってこと?」
「多分。――あの人、本当格好いいな」
優しさがさりげなくて、恩着せがましさの欠片もない。しみじみと呟く俺に、岩見も同意する。
「なんかこう、理想の男! って感じ。共学だったら恐ろしくモテただろうなぁ」

俺もそう思う。


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