My heart in your hand. | ナノ


▼ 26

夕刻。HRが少し長引いた。
先輩はもう図書室に着いているはずなので、急いで向かう。入ってすぐに目に入るカウンターは無人だった。今日はいつもの図書委員は来ていないらしい。
さっと見渡した広い室内には誰の姿も見当たらなかった。先輩の姿もここからは見えない。しかしいつもの席に荷物はあったから、彼は書架の方にでもいるのだろう。

カラカラと音を立てる戸を静かに閉めて中に入る。奥の書架周辺は、中央の照明の光が届ききらず薄暗い。それに落ち着くから俺はこの場所と相性がいいと思う。古い紙の匂いを感じながら、通路を確認していく。

キヨ先輩は、入口とは対角にある一番奥の書架の前で立ったまま本を読んでいた。目を伏せた横顔は、こちらに気が付いた様子がない。
先輩に話しかけるとき気まずさを感じるのではないかと思っていたが、意外にもそんなことはなかった。少し安堵して、無言のまま近付き後ろからとんとんと肩をつついてみた。キヨ先輩はびくっとして素早く振り返った。目が丸く見開かれている。

「ハル」
「―びっくりしました?」
「すごく」
「はは」
こっくりと素直に頷くから笑ってしまう。それに対して何故だか嬉しそうな顔をされた。

「なんですか?」
「ハルが普通に笑ってくれて嬉しい」
返された言葉に目を瞬く。反応できずにいると、キヨ先輩はしっかりとこちらに向き直ってから頑丈な書架に軽く凭れるような姿勢で、俺の顔をじっと見た。

「警戒して、半径一メートル以内には近寄るなみたいな態度とられるかと」
「俺のイメージ、わりと酷くないですか? キヨ先輩にそんな態度とりません」
前も何かそんな態度とらないと反駁した覚えがあるのだが。俺はどう見えているのか。わざと苦い顔をすれば楽しげに笑われる。
「酷いかな? でも俺は、それも嬉しいって思ったかも」
「ええ? なんで」
そんなのは拒絶しているのと一緒ではないか。先輩の言っていることがよく分からない。

「意識してくれてるんだなー、ってポジティブに受け止めて喜ぶよ。俺は」
顔を覗き込むようにしながらそんなことを、冗談ではない調子で言うから、急に恥ずかしくなった。すっと目を逸らして「ポジティブすぎますよ」と憎まれ口をたたく。

「……すごい。ハルが照れてる」
なんだか感嘆したふうに言われて顔を手で隠す。
「――そういうの、やめてください……」
「ごめんね」
ごめんね、って。なんでそんなちょっと普段と違う口調で言うんですか。
ちらりと窺うと彼はにこにこ笑っていて悔しくなるが、安心もした。よかった、普通に話せる。俺の方こそ心配だったのだ。まだ返事が出来ない俺と、先輩はあまり話してくれないのではないかと。でも、誘ってくれるし話していつもの笑顔を見せてくれている。よかった。


いつもの席に座ってから、なんとなく何を読んでいたのか尋ねてみると、本の表紙がこちらに向けられた。横書きの文字は英語だ。あ、と声が出る。それはとても有名なハリウッド映画の原作だった。

「レベル的に読めるから、気分転換に読んでみろって先生に勧められたんだよ」
知ってる先生だと思う、と告げられた教師の名前はうちのクラスの英語担当と同じだ。
「俺、英語の本は短編の児童書くらいしか読んだことないです。その分厚いのが読めるレベルって、すごいですね」
「いやいや。こんなの読もうとしたら難しくて気分転換にならないだろって思っちゃってたから、褒めないで」
図書室には俺たち以外に誰もいなくて声を潜める必要はないはずなのに、俺もひらひらと手を振って謙遜する先輩も、癖なのかなんなのか小声で話している。

俺が気付くのと同時にそれに気が付いたらしいキヨ先輩が、「なんでこんなに声顰めてるんだろうな」とまだ小声のままで言うからおかしくなって笑みが浮かんだ。



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