1

失礼します、と一礼して進路指導室を出る。俺がドアに手をかけてもまだ話し続けている教師に笑顔を浮かべてみせ、会釈を一つしてから遮断するようにドアを閉めた。
声をかけられるままに相手をしていたら、いつまでたっても帰れないことは経験上分かっている。以前から学年主任を務める教師に殊更気に入られている自覚はあった。あまり嬉しいことではないが。

大した用もないのに話があると言って呼び出され、ただだらだらと無意味な話を聞かされることが好きな人間はそういないだろう。
それが辟易するくらい繰り返されると"目をかけられていて有難いです"なんて殊勝ぶった態度も取れなくなる。一応目上への礼儀には気を遣っているつもりだが、さすがに。
もう決まった進路について、「お前ならあそこも目指せた」「この学部も受けてみたらどうだ」なんて言われるのも、今後の生活についてのご高説も、遮らずある程度聞くだけ俺は忍耐強いと思う。
もう心配する必要がない俺ではなく、試験を目前に控えた同学年の生徒たちを気にかけてほしいし、最終学年を担当する教師ならば当然そうするべきなのだ。

歩きながら、腕時計に視線を下ろす。恐ろしいことに、三十分も時間をとられてしまった。俺と同じ境遇の小早川は学年主任を自分のペースに巻き込んで、ほとんど喋らせずにさっさと会話を終わらせられるのに、俺のこの要領の悪さときたら。
小早川の鮮やかな手を見習いたいものだが、言動の種類が違いすぎて無理だろうと半ば諦めている部分もある。呼び出されていなかったら、今頃とっくにハルが隣にいたのに。


四六時中べったりくっついていたいとは言わない。それでも会える時は出来るだけ長く一緒にいたいと思うのは、不自然なことではないはずだ。まして、こうして同じ場所で過ごせる時間には限りがあるのだから。許されるだけハルを見ていたい。

ふっと息をついて、スマホを確認する。新着の通知を見ると、三十分前に呼び出しをうけた旨を伝えた俺のメッセージに対して、ハルから了承の言葉が返されていた。
それだけではなく、少し冗談めかして「待ってるから出来るだけ早く」といった内容の文章が続いていたから、俺は思わずぎゅっと目を閉じた。
すぐにもう一度開いた目で文字列を追う。そして吹き出しのすぐ横に表示された時刻が一つ目の返事と二つ目のもので数分差があることに気が付いてしまったので、今度は心を落ち着けようと深呼吸をした。

ハルは別段、スマホの操作が不得意なわけではないし、文字の入力速度も遅くない。それなのに、この長くはない文章は送信されるまでに数分かかっているのだ。打つのに手間取ったのか、送るのを躊躇ったのか、一度画面を閉じてから思い直して打ったのか。
どれも不正解かもしれないし、尋ねはしないから正解も分からないけれど、俺はただこの数分遅れの文章で掴まれてしまった心臓が苦しかったから、クマか何かが万歳しているスタンプを苦し紛れに送って、スマホをポケットに戻した。

ハルは寮室にいるはずなので、寮に着いたタイミングでもう一度メッセージを送ることにする。指導室はどうして生徒玄関とほぼ真反対の位置に据えられているのだろうか。帰ったらハルに俺の部屋のカードキーを渡しておこう。どうして今まで思いつかなかったのだろう。ハルが俺より先に俺の部屋で待っていてくれたりしたら、それは想像するだけで嬉しい。


校舎を出て寮までの道を進む。正面から吹き付けた風の切るような冷たさに驚いた。秋の気配は葉を落とし切っていない紅葉くらいのもので、年末を目前にした今、季節はすっかり冬へと変化しているようだ。
意識した途端、言いようのない寂寥を覚える。日々はきっと、俺が望むよりもずっと早く過ぎてしまうだろう。

吐き出しかけた溜息を呑み込む。考えても仕方のないことは考えないのが一番だ。
俺がどう思おうと時間は止まらない。卒業も延期になったりはしない。ならば悩むよりもハルに意識を向けていたい。


back