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寮に足を踏み入れると、温まった空気が頬に触れた。強張っていた表面が解けるようだ。
少し乱れた髪に手をやりながら何気なく談話スペースの方に向けた視線が、一点で留まった。こちらに背を向ける形で置かれた椅子に腰かける後姿がハルのものだと分かったから、というだけではなかった。俺はハル自身よりもその目の前に立った男に注意を引かれたのだ。見知った顔ではない。けれど、二人の距離は座っているハルの膝に相手の脚が触れそうなほど近いように見えた。

何事か話しかけた男が笑う。快活で、そして親しげな笑みだ。そう思って米神の辺りが冷えた。かわりに鳩尾の辺りがわずかに熱くなる。

それは、ただの友人がする顔ではなかった。俺には分かる。俺がそうだから、分かるのだ。
あれはハルの言葉を、態度を、表情を、仕草一つを愛おしんでいる顔だ。
烈しい拒絶感を覚える。冷静な部分では自分のなかに沸き起こった苛烈な感情に呆れたけれど、実際そんな目で俺ではない人間がハルを見ていることもその視線にハルが向き合っていることも耐え難かった。我ながら常にないくらい荒々しく歩を進める。靴音に、ハルが振り返りそうな素振りを見せたが、目の前の存在に意識のすべてを向けているらしい男の方は、こちらにもハルの動作にも気が付かず、それどころか身を屈めてハルの体に手を伸ばした。

肩か、髪か、どこに触れようとしたかなど知らない。ハルに届く前に、距離を詰めた勢いのまま俺がその腕を掴んだから。

初めて男の意識がハルから逸れる。俺を認識してぎょっとした顔をする相手と目を合わせたまま、空いた手で後ろからハルの体を引き寄せた。近付いていたのが俺だと分かっていたのか、急に抱き込まれるような体勢になってもハルはさほど驚かなかったようだった。

「え、なんで」
男が戸惑ったように声をもらす。青年らしいさっぱりとした印象の顔に浮かんだ表情は存外に幼く、纏っている制服の質感から見てもハルと同じ一年生だろうということが窺える。
ハルに触るな。直截的には言いたいことはそれがすべてだったが、あまりに剥き出しでハルの前に晒すには不恰好過ぎたから、俺はしかめ面のまま一瞬逡巡した。


身動いだハルが、俺を見上げて「キヨ先輩」といつも通りの調子で呼んだ。俺は掴んでいた男の手をぎこちなく放して、ハルを見下ろした。
こんな角度でも可愛いハルは俺の行動を不思議がっているらしく、大丈夫? どうしたんですか、と言うように少し気づかわし気に一心に見つめてくる。双眸には俺しか映っていなくて、少し、気が緩んだ。微笑んで見せてから、前を見て口を開く。

「あまり、馴れ馴れしくしないでくれるか」
訳がわからない様子だった一年生は、その言葉を受けてさも不愉快げな色を浮かべておれを睨んだ。
俺と目線の高さが一緒だった。たったそれだけのことが気に食わない。なぜと言われても上手く答えられないけれど。
挑むような目つきも気に入らなくて、俺はちょっと顔をしかめた。こんなふうによく知りもしない人に反感を持つ日が来るとは。

「そんなの、委員長に関係ないっすよね」
「無くはないな」
「意味分かんねえ……。急になんなんすか。それに、馴れ馴れしいも何も、俺ら仲良いし」
俺が知らなかっただけで、この男はハルの友人なのだろうか。あんな目でハルを見る、明らかに友情ではない好意を持っている奴が。
かつての自分もそうだったくせに、そんなことは棚に上げてざらついた気分になった。

ハルを見るなと言いそうになって、さすがに横暴がすぎるかと口を引き結んだ俺をやりこめたと思ったのか、せせら笑うように「なあ、江角?」とそいつはハルの顔を覗き込む。
それと同時に、とん、と俺の腹にハルの頭が当たった。体を後ろに引いたらしい。

「いや、馴れ馴れしい」
ハルらしい、はきはきと明瞭な口調だった。俺はこの歯切れがいい話し方がとても気に入っていた。普通は言いにくいようなことでもハルは大体とても滑らかに口にする。
それなのに時々俺に対しては恥ずかしそうに言い淀んだり言葉を探して詰まったりする。あまりにも可愛い。好きだ。

一瞬逸れかけた俺の思考は、引きつった笑みを浮かべた男の声で引き戻される。
「えっ……何言ってるんだよ、お前まで―と、友達だろ?」
「……、お前は数回一方的に話しかけた相手を友達って呼ぶのかもしれないけど、俺は違う」
「な、んだよ、江角。なんか怒ってる? 機嫌治してよ、な?」
戸惑い、焦り、諂い。表情をひきつらせた男が伸ばした手を、俺はまた掴んで制止していた。
無意識だった。
彼の両眼が明確な怒りに燃える。

「っだから、なんだよ邪魔すんなって! うぜえんだよあんた!」
「ハルが嫌がってるだろ」

いや、一番嫌なのは俺だけれど。建前にハルを使ったことに言下で自己嫌悪する。でも、さっきの言葉からしてハルがこの男に好意的なわけではないことは明確だ。
現金な俺は、それで勢いづいたのもあってつるりと口を滑らせた。

「それに、ハルは俺のことが好きなんだ」



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