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「ハル」
「……来るの早い」

コートもマフラーも身につけたまま、クッションを盾のように胸の前に抱え、ともかく心を落ち着けようと努力していると、すぐに我に返ったらしいキヨ先輩がやってきた。
謎の文句を言う俺に先輩はやたらと嬉しそうに笑って、遠慮なく隣に座ってくる。遠慮されないのが嬉しいとは思ったが今は例外としたかった。何を言われるか考えるのも恥ずかしくて、目を逸らしてクッションに額をくっつける。
先輩が悲しそうではなくなったのは、いいことだけれど。

「ハール。顔見せて?」
「まだ待って」
「ふ、なあハル。ありがと」
「……何が」
腕が肩に回されて、隣の先輩と体がくっつく。

「俺が誤解して自己嫌悪したから、言葉にしてくれたんだよな。恥ずかしいのに教えてくれたのが嬉しい」
「……ん」
ちゅ、と微かな音がした。多分、髪に口付けられたのだろう。
「あと、勝手に嫌な解釈してごめん」

すぐそばで優しい声がして、こめかみの辺りにもキスをされた。キヨ先輩はじっと俺を見ている。彼の綺麗な目は雄弁だ。この人は俺のことが好きなのだと思い知らせるような目をする。その目を見ていたら照れている必要性が分からなくなった。
頬の内側を軽く噛んでから、俺はクッションを手放して、座ったままキヨ先輩の方に体を向けた。自分から手を伸ばすより早く、二本の長い腕の中に囲い込むように閉じ込められる。

好きだ、と思う。言葉にはならなかった。短い言葉なのに、大きすぎて胸につっかえて、音にならない。
先輩も同じだろうか。深く息を吸い込む。キヨ先輩の匂いがした。ほっとするいとおしい匂い。しかし体温はあまり感じられなかった。着込んだ衣服のせいだ。

深呼吸をしてから先輩の胸を押して少し離れる。それからコートを脱がせようと手をかけると、先輩も笑って俺のマフラーとコートを脱がしにかかる。ブレザーまで脱がせて、自分も同じく脱ぎ捨てて、それからまた固い体を抱き締める。今度はちゃんと温かかった。
目を閉じてそれを感じているうちにどんどん気持ちが凪いできた。安心する、というのはこんな感覚なのだろう。

「キヨ先輩」
「ん?」
「合格おめでとうございます」

ちょっと有耶無耶になりかけていたから、改めてもう一度告げた。抱き付いたままでは何にも格好はつかないが先輩が喜んでいるからそれでいいのだ。

「ありがとう。これで一安心だ」
「……なにか、俺にしてほしいことありますか」
「してほしいこと?」
「お祝いに」
ちらりと見上げる。キヨ先輩は俺にくっついたまま思案げな顔をした。

「なんでもいいの?」
「俺にできることなら」

じゃあ、と体が離れる。

「ハル、ここにきてくれる?」
「は?」

ここ、と彼が軽く叩いた場所。膝の上だ。冗談かと視線を向けるが、表情も態度も明らかに俺がそこに座るのを待ち望んでいる。もう一度確認してもやはりそこは膝の上だ。
動揺して、躊躇して、構図を想像して絶対無理だと思った。そのまま言葉にしようと口を開きかけたが、自分でしてほしいことはないかと言ったのに断るのか、と躊躇う。逡巡していると、キヨ先輩が「ハル、」と声を発した。
そんなの、ずるいだろ。そんな風に呼ばれて、俺が拒絶できるわけない。分かっていてやっている。絶対。

一度おさまった羞恥がぶり返して、耳がまた火照っているのがよくわかる。顔を歪めて、負け惜しみにごく小さく舌を打って、それでも結局、俺はキヨ先輩の求めに応じた。
彼の両足を恐る恐る跨ぎ、重みをかけないように膝立ちになって肩にぎこちなく手を置く。真剣だった顔を満足げに緩めながら、すかさず俺の腰のところで両手を組むのは逃亡防止ですか。
背もたれに体重をかけて俺を見上げる二つの目は、相も変わらず硝子玉みたいに澄んでいて綺麗だ。

「――これでいいんですか?」
「うん。」
「なんで、こんなこと。これがしてほしいこと?」
「うん。隙間なくくっつけるだろ。あと、あのハルが膝に乗ってくれるとか、俺だけの特権でしょ」

当たり前だ、あんた以外なら頼まれたってこんなことはしないに決まっている。
そこを理解してくれているなら俺の羞恥もちょっとは報われる、かもしれない。しかもかなり嬉しそうだし。変な人だ。



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