一
その日は麗らかな春の日だった。
屯所の庭木は春の訪れを寿ぐように一斉に花や新芽を綻ばせ、辺りはふわりと良い香りが漂っている。
千鶴は畳み終えた洗濯物をそれぞれの持ち主の所へ配っていたが、優しい陽光に誘われて途中足を止め、濡れ縁へ出ると、すう、と鼻から息を吸い込んだ。
新しい生命が萌える匂いを肺に満たして、今日は気持ちが良いな、と彼女は満足げに笑んだ。
するとその時、背後で何かが盛大に崩れ落ちる音が聞こえた。
『!?』
千鶴は驚いて後ろを振り返った。
そこは監察方の部屋であった。
大丈夫かな、と、千鶴が閉められた障子へ近付くと、あろうことか再び同じ音が聞こえた。
何かあったのではと、千鶴は洗濯物を傍らに置き、障子扉に手を掛けた。
『すみません、失礼します』
返事を待たずして戸を開けると、中には無残にも散乱したたくさんの紙と、その真ん中で困り果てた山崎の姿があった。
山崎は千鶴の姿に気がつくとばつが悪そうな顔をした。
『雪村君か』
『すみません、勝手に開けてしまって。
…えっと、どうされたんですか?』
ぺこりと頭を下げた千鶴がその様に尋ねると、山崎はやや間を開け、後頭部に手をやりながら小さく、いや、と切り出した。
『何でもないんだ。君が心配する様な事は無い』
何処か拒絶をする様な言い草だが、これはこちらに心配をかけまいとするからだという事を、屯所暮らしの長い千鶴は良く理解している。
新選組の人間は皆が皆自分の苦労を隠そうとする所があった。
言いたくないのなら聞くまいと思い、千鶴は少し遠慮がちに室内に入り、膝を付いて散らばった紙を集め始めた。
山崎は少し怯んだ様子を見せ、千鶴の行動を止めさせようとした。
『片付けのお手伝いをさせて下さい。
このままだと、皆さんに見つかってしまうでしょう?』
そう言って微笑めば、山崎もそれ以上はせず、短く、すまない、と言った。
千鶴は緩く首を振って、いいえ、と答えた。
黙々と紙集めをしながら、千鶴は山崎の顔を盗み見た。
彼の目の下には遠目でも解る程くっきりと隈が浮かんでいた。
もしかしたら連日徹夜で、きちんと眠れていないのかもしれない。
せっせと紙を集める事暫く、漸く元通りにする事が出来た。
ふた山の紙束は、文机に乗せると腿の辺りまでの高さがあった。
『有難う。君が手伝ってくれたおかげですぐに片付ける事が出来た』
礼を述べ、此処へ来て初めて山崎が笑顔を見せた。
『とんでもないです』
千鶴も笑顔で応えると、ふと表情を消して言葉を続けた。
『あの、余計なお世話かも知れませんが…ちゃんとお休みもとって下さいね?』
『えっ、』
山崎が聞き返そうとすると、千鶴は廊下に置いてあった洗濯物から山崎の分を取り出し、彼の前に差し出した。
勢いに飲まれて何となく受け取ると、千鶴は元気良く頭を下げた。
『では、皆さんにも配らないといけないので失礼しますね!』
静かに障子が閉められると、ぱたぱたという可愛らしい足音が去っていった。
山崎は立ったままぼんやりとそれを聞くと、ふあ、と欠伸を出し掛けて慌てて口を塞いだ。
千鶴が考えていた通り、山崎は此処暫く任務に忙殺されてまともに寝ていなかったのだった。
激しい音の正体は、眠気で注意力を欠いた彼がうっかり紙の山に何かをぶつけて崩してしまった音だった。
こんな状態ではまともな仕事も出来ないだろう。
先程千鶴に気遣いの言葉を貰った事を思って、山崎は苦笑いを浮かべた。
人に指摘される程疲れて見えるのか、それとも、細かな気配りが出来る女性である千鶴だから気付かれたのか。
いずれにせよ、自分を気遣ってくれての事には変わりないので、あの声掛けは少し嬉しかった。
少しだけ休もう。
そう思い、山崎は文机を離れて障子を開けた。
春の香りが鼻をくすぐり、思わず目元を柔らかく細めた。
縁側へ出て腰掛ける。
どこからともなく目白の鳴く声が聞こえて来て、柱に身体を預けてそれに耳を傾けた。
風流だな、と思ううちに、そのまま山崎は寝入ってしまった。
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