八
相手の身体が至近距離にあるならば、ナマエは吐息で瞬時に凍らせる事が出来るはずだった。
しかし出来なかった。
それは、ナマエが風間の容姿に目を奪われたからに他ならない。
『どうした?俺の心の臓を凍らせるのでは無かったか?』
口角の両端を上げ、まるでからかう様な、至極意地の悪い声音で風間が言う。
ナマエは我に返り、目の前の侵入者を強く睨み付けると、身体が宙に浮いた状態で片手を風間に向かって突き出した。
『…遅いぞ、雪鬼姫とやら』
ナマエの手に氷の欠片が集まるより早く、風間が彼女の手首を掴んだ。
『!!』
掴まれた箇所が火傷をしたかの様に熱く感じて、ナマエは何も出来なくなってしまった。
体勢を崩し、身体ごと雪の地面に倒れ込む事を覚悟した…が、風間はナマエの手首を掴んだままで刀を持った方の手で彼女の腰を支え、柔らかく着地するのを手伝った。
すぐに侵入者から距離を取ろうとしたが、身体の自由が利かなかった。
『成程、人間どもが“魔性の女”と噂をするだけの事はある』
『…っ、』
先程からナマエは風間の腕から逃れようと全身全霊の力を込めてもがいているが、恐ろしい事に彼はびくともしなかった。
風間はナマエに顔を近付け、視姦するかの如くじっと見つめた。
(ち、近い…!)
せめてもの抵抗に顔を精一杯背け、ナマエは黙してその視線に耐えた。
何故だか上手く力が入らず、氷の吐息が使えない。
『雪鬼姫の二つ名は伊達では無いという事か…』
ゆきひめ、の単語を耳にして、ナマエの胸の内に不愉快な黒い点が生じた。
その渾名は、人間達が自分を忌み嫌って付けた名であり、彼女にとっては不名誉なものだった。
『その名を口にするな』
横を向いたままナマエが唸る様な声で呟いた。
風間は微かに眉を動かした。
『私はその名が嫌いだ。その名を口にするな…!』
迸る怒りを冷気に変えて、氷点下の空気を身体に纏う。
ナマエの髪色が変わり、額から二本の角の様なものが現れた時、風間は反射的にナマエから手を離した。
彼が掌を見ると、一瞬で凍傷が出来ていた。
風間はナマエに向き直り、ぎり、と刀を握り直した。
『…ならば名乗れ。貴様の名を聞いてやる』
溢れ出る妖気に髪や衣を舞わせつつナマエは冷たい黄金の眼差しを風間に向けた。
彼女の額には氷に包まれた様な美しい角が生えていた。
『無礼な。相手の名を求めるのならまず己からだろう。
言え、侵入者。貴様こそ何者だ』
恐れ平伏(ひれふ)し、または媚び諂(へつら)う女どもは幾らでも見て来たが、自分を前にこれ程強気に出る女子を風間は今まで見た事が無かった。
風間は声高らかに笑い、そして刀を納めた。
『面白い。…いいだろう、貴様の傲岸さに免じて教えてやる。
俺の名は風間千景。西の鬼を遍く統べる頭領だ。
よくよく覚えておくがよい』
『…!』
(風間…!?まさか、この男が東の雪村に並ぶ一族だとでも!?)
驚愕の名を耳にし、ナマエは思わず妖気を霧散させた。
元の姿に戻った彼女を目にして、風間はただにやりとした笑みを浮かべるばかりであった。
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