辺り一帯には千賀が走り回る以外の音がしない。
…いや、よく耳を澄ますと自然の世界の音がする。

枝から離れた葉の落ちる音。
高い空を飛ぶ鳥の声。
緩急をつけて吹いて行く風の音。
それらの全ては、静寂の中にあってこそ感じられる微かな音であった。

静けさが満ちた場所にいると心が凪いでいく。
波紋が収まる水面を見ているかの様なこの感覚が嫌いな訳では無いのだが、ナマエは時々、日常の中にあってこの穏やかさを不思議に感じる事がある。

どうしてこの様な所に自分がいるのだろうか、と。
それはナマエが人生の半分近くを、穏やかと相対する所で過ごしてきたからかもしれない。

今でも昔の事を夢に見る。
その度、は、と目が覚めて、隣に風間の姿を見つけて何度も安堵している。
この期に及んで自分はまだ、平和というものに慣れていないのだろうと思う。
風間から身に余る程の愛を受け、血肉を分けた愛しい子達に囲まれて尚、全く、私という者はと、我が身を厭わしく思う事もある。

それでも今、ナマエが生きているのは確かにこの平穏な世界である。

幾らか呆けていたのかもしれない。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、突然温かな何かが肩を抱いて驚いた。

『!』

弾かれた様にやや鋭く顔を向けると、目の前に風間の顔があった。
紅の眼は真っ直ぐにナマエの瞳を捕らえている。
肩を抱いたのは風間の手である。

『羽織物を持て』

妻の身体が若干冷えていると感じ、風間は従者にそう命じた。
すぐに肩掛けが用意され、それは風間手ずからナマエの肩に掛けられた。

『遠い目をしていたな』

半身後ろより、風間がナマエの身体を包む様にして肩を抱く。
ナマエは言葉を返さないまま、夫の身体に体重を預けた。
ナマエが何も言わないので、そのまま沈黙が間を制する。

僅かの後、風間特有の鼻で笑う声があった。

『お前の事だ。大方、この安寧を素直に享受出来ずにいるのだろう?』

『…!』

今になってもまだ強情な奴だ、と言ってくつくつ笑う風間を、ナマエは目を丸くして見た。
何故この人は、それに気付いたのだろう。

『…なんだ、その珍妙な顔は。
お前の心持ちに気付かぬ俺と思ったか?』

風間はそう言って、指の背でナマエの頬を優しく撫で上げた。
擽(くすぐ)ったさに目を閉じたその一瞬に、瞼に柔らかな口付けが降ってきた。

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