三
妻子のある日々というものを知り、殺伐とした京から離れて久しい。
もしかしたら千景様は前ほど人間に対して嫌悪の感情を抱いていないのかもしれない。
ナマエがそんな事を思いながら先を読み進めていると、もう一度文字を追う目が止まった。
“姉様にお会いしたく思います”
千鶴の背を見送ったあの日から、幾度それを思ったろう。
ナマエもまた、千鶴に会いたいと思っていた。
会いたいと思っている相手が同じ思いでいると知ると、その気持ちは強くなる。
ナマエの心は激しく揺れた。
会いたいがしかし、手段はどうする。
こちらが行くのか、あちらが来るのか。
場所は何処にするか。
北と南の果て同士、距離はあまりにあり過ぎる。
『千景様、』
ナマエは自然と彼の名を口にした。
先ほど否定されなかった事で、何か良い意見が聞けるだろうと思えたのだ。
風間はナマエに顔を向けた。
『千鶴に…会いたいのですが、その』
『招けば良いだろう』
あまりにあっさりとした解決策に、ナマエはぽかんとしてしまった。
色々言おうとしていた事が飛んでいってしまい、瞬間口が利けなくなる。
『子を産んだばかりでは何かと手が掛かる。
しかもこれから北の地は雪が深くなる。
そうだな…新緑の頃ならば生活にも慣れ、移動もし易いか』
その頃に遣いを寄越せば良い、という夫の顔をナマエは目を丸くして見た。
恋慕の情が不意に高まる。
下唇をぎゅっと噛み、堪らず彼の側へ小走りで近寄った。
表情をころころと変え、こちらに寄って来て、己の肩口に額を寄せた妻の一部始終を黙して見守り、最後に風間は、ふん、と笑ってナマエの髪を撫でてやった。
『否定的な言葉が出るとばかり思っていました』
ナマエが消え入りそうな声でその様に言うと、風間はそれを鼻で笑い飛ばした。
『一体お前は何年俺の側にいると思っている』
ナマエは上目遣いに彼を見た。
風間は髪を撫でる手を止め、ナマエを抱き上げて己の胡座の間に納めた。
『この俺が妻にと認めたお前が、妹と呼び慕う存在だろう。
それが伴侶にと選んだ男ならば、俺は何も言わぬ』
相変わらず必要な言葉が幾らか足りないが、要は、自分が愛するナマエが大事だと思う千鶴は、風間にとって同じように大事だという事だろう。
彼の言葉を咀嚼してその意を理解した時、ナマエは嬉しくて胸が温かくなった。
『お前は自己評価が過小だ。
…お前は今何処に居て、誰の妻の座に在る?』
如何にも尊大な風間らしい言葉だが、不思議とナマエの胸を打つ。
『…はい』
直接の返事はせず、満面の笑みを以て返事とする。
風間の頬に手を添えて目を見つめると、満足そうな彼の顔が近付いて来る。
想いの籠った口付けを受けながら、すぐにでも返事を書こう、とナマエは思った。
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