変になっていく心 3 | ナノ


パチリ、と目を開く。薄闇に包まれた世界は一瞬だけ自分の存在さえ危うくさせる、瞬きを繰り返してやっと燐はここが真夜中の自室でベットで眠っていたのだと遅れながら気付いた。未だ眠気が強く、この靄が掛かったような思考と虚ろな瞳では再度瞼を閉じればきっとすぐに夢に旅立てるだろう。けれど燐はそれに抗う。

 そうするのが何故か怖かった。いや、メフィストに会わない事にしてからは何時も怖かった。元々会わない事にしたのも、全てが実は自分を利用するだけのモノなんだとメフィストに言われるのが怖かったからだ。

 今までの事全てを本気にしていたのですかとメフィストに嘲笑われてしまえば、何かが壊れてしまう気がしたのだ。知らない間に胸へ手を添え、ぎゅうとTシャツを掴んでいた。まただ、胸がギシギシと痛む。最近はこの痛みも酷くなる一方だ。どくどくと早く脈打つ心臓がうるさい。

 はやく、早く。何でもいいから落ち着かないと駄目だ、何かを必死ですがる様に燐は探す。探さないといけないモノ、それは白くて、おかしな──、その時瞳に飛び込むのは反対側のベット、兄の狼狽など知る事もなくすやすやと眠る弟の姿に一気に現実感が戻り、燐はハッと短く息を呑む。

「……ははは、寝惚けてんじゃねーぞ俺」

 変に全身に掛かっていた力を抜き目許に腕を被せ、はあと深い溜め息を一つ。どうやら冷や汗も掻いていたらしく、背筋がじわりと湿っている。不意にすりっと腰に何かが擦り寄る感覚、きっとクロなのだろう。燐が身動きした事により起きてしまったのかもしれない。

 燐は謝罪を込めて優しく撫でてやる、クロの毛並みは綺麗で撫でやすい、

「あ?え、…あれ?」

筈だが、その撫でやすいクロの毛並みが違う、今燐の掌に伝わるのは変にふさふさして柔らかい感触。

「そこは少々擽ったいですな、撫でて頂けるのなら頭か耳の後ろが私は好きです」
「お、おま…っ!!」

 掛け布団から声と共にひょこりと顔を出したのはふさふさな毛並みの小型犬、メフィストだった。怒鳴り声をあげそうになるも咄嗟に自分の掌で口を押さえて燐は声を飲み込む。ちらりと雪男へ瞳を向けるも寝返りを打っただけでどうにか起こさなくてすんだようだった。

「…何しに来てんだよっ、つーかどうやって入ってきた…」

「私の学園なのに私の好きに入れない場所があるとお思いですか?」

「…お前。プライバシーっつう言葉を知ってるか?」

 小声でメフィストと会話を交わしながらも心臓が高鳴る、自分の意志ではなく体が喜んでいるようだった。今の犬であるメフィストならその心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと馬鹿な事さえ考える。会いに来てくれた事に浮かれているのだ、と燐は分かっていた。

「最近は邸に顔を見せに来なくなったので、どうかされたのかと会いに来たのですが?」

「あ、えー…その、体調を崩しててさ。そりゃあもう授業には出れない程で、…だから悪い」

「…なるほど。授業には出れない程に、…そうでしたか」

 嘘をつくのは心苦しいが本当の事を言う勇気もない。自分をどう思っているのだ、と燐が聞く事が出来ればいいのだろう。しかし今の燐ではそれを言える気はしない、ただ答えを、訪れるかもしれない終わりから逃げる為に口は動いていく。

「それでさ、暫くお前ん所行くの止めようかと思って」

「…どうしてですか?」

「いや、ほら、真面目に修行とか勉強しねーとだし。あんまフラフラしてっと雪男も心配すんだろ?」

 へらりと笑うも口端は引きつっていないだろうかと不安がよぎる。メフィストは相変わらず犬の姿の侭でやる気がないような瞳をしっかりとこちらに向けていた。普段から表情は豊かだがその裏にある感情はまるで読めない、犬の姿では更に困難だ。
 ただ一瞬、ちらりと雪男の方へ瞳が動く。

「奥村先生、ですか」

「は?」

 間の抜けた声が出る、予想外に雪男の名前があがると燐は眉を顰めた。

「先程の事見ていましたよ、目覚めると同時に何かに怯えて何かを探していたのを。しかし、奥村先生を見た瞬間に落ち着きましたね」

「お前、何言って…」

「奥村先生に悪いと思っているのですか?それとも恋慕しているのですか?変に私に気を遣って頂かなくとも結構、たかだかキスをしただけの、」

「っ、メフィスト!!」

 名を呼ぶ言葉が大声になる。けれど燐はどうしてもそれ以上を先を聴きたくなかった。手は震え始めて、掛け布団を強く握り締める。繊維の裂ける音が聞こえた気もするが、今は奥歯を噛み締めて溢れる感情を押し殺すに燐は必死だった。

 たかだが、と言って欲しくなかった。何を勘違いされているのかわからないが燐は、自分の中で特別なその行為をメフィストにだけは否定されたくなかった。喉が乾いて、言葉を発するのに時間がかかる。どうにか唾を飲み込み唇を開くと溢れたのは止める事の出来ない感情。

「…てめーだって、ただの武器に気を遣わなくていいんだぜ?飼い慣らす為だけにここまで手の込んだ事しなくとも、俺は、っ」

 それに含まれるのは疑惑、恐怖にほんの僅かな期待。ぎゅっと瞼を閉じて体全体から感じる汗がうっとうしい。暫く沈黙が続く、そうしてどうにか落ち着いてきた心音と頭で、何かを言わなければと燐は焦る。スッと息を吸い込む、と。

「…兄さん?」

 何故か、雪男の声がよく部屋に響いた。


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