小説 | ナノ


▼ とある生徒と教師の事情



中条の部屋から逃げ出して、ようやく足が止まったのは 生徒棟を抜けてからだった。
無意識に教員室に戻ろうとする足取りが、徐々にぽてぽてと覚束無くなり、ついには脱力して 立っていられなくなった。
隠れるように校舎の影に身を寄せて、背中を壁にあずける。
ずると後ろ髪と上着が外壁に擦れたが、そんなことを気にする余裕はない。

「…ッ」
どくどくと 自分の心臓が脈を打つ音が聞こえる。
身体が熱くて、喉の奥が何かで塞き止められているかのように息苦しい。
耳にかかった中条の熱い吐息や 諦めたような切ない声が脳裏から離れない。

「…。」
中条が、思わせぶりな態度で迫ってくるのはよくある事だった。
そのどれもが悪ふざけの延長で、いつもはニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべていた。
でも今しがたの言動には 冗談は少しも混じっていなかった。
……中条はきっと、本気で自分をベッドに引き倒したのだと思う。

「〜…ッ」
あんな真撃な眼差しで迫られて、その空気に動揺してしまった。
きっとこの学園に赴任したばかりの自分なら何の躊躇もなく、中条をただの生徒だと割り切って 一蹴していたはずだ。
むしろそんな手段に出たことに嫌悪して、「退学にされてしまえ」と軽蔑していただろう。
こんな風に混乱するなんて、あるわけがないのだ。

この感情はなんだ…?

誰に対しても、特別な感情なんてもう感じない。
自分にはシギしかいない。シギしかない。
他のものは、何も要らない。

『弟以外を、見たことはあるのか?』

キリキリ痛む胸を押さえて、静まれと何度も心の中で唱えながら空を仰ぐ。
誰にも触れられないようにしてきた傷口が、じわじわと開いていくような気分だった。



しばらくして、美柴は茫然と教員室に戻った。
頭の中が真っ白で、すとんと自分の椅子に座っても 何も手につかない。
先ほど中条への処罰を言及していた教師達は、美柴の後ろを通り掛かりながら また同じ話題を繰り返していた。

「今さっき彼の部屋に行って6時まで待ってやるから提出しなさいと伝えてきたが 「時間の無駄だ」と言われましたよ」
「あぁ、本当にどうしようもない生徒だ」
「彼の勝手を容認するのには、やはり限界がある」
「あれはろくでもない」
「昨年の乱暴事件も尾を引いている。居なくなってもらったほうが学園の為だ」

『居なくなってもらったほうがいい』
その言葉は、不意に美柴の頭を殴りつけた。
瞬間的に脳裏によみがえるのは 自分が学生だった頃の記憶。
シギが行方不明になった頃の幻覚と幻聴。

”あの部屋”の前で 美柴は一人、立ち尽くす。
もう自分は誰からも求められない。
求めてくれる存在は、もう居ない。

『なんでよりによってシギが神隠しに遭うんだよ。兄貴のほうがー…』

そんな事、噂話ついでに囁かれなくても、自分が一番よく分かっていた。
シギのほうがずっとずっとこの世界に必要な存在で、居なくなるのならば自分のほうが良かったのだ。
夜な夜な寮内を迷い始めたのはその頃からだった。
どんなことをしてでも、シギを見つけたかった。
誰からも必要とされない孤独は、この隔離された学園の中では地獄のようだった。

……一度でいい。シギに「鴇」と呼んで欲しかった。


必要だと、言って欲しかった。



「ー…美柴センセ」
「!」
唐突に呼ばれ、美柴はビクリと我に返った。
驚いて見やれば、カップを差し出してくる久保田が 妙に訳知り顔で美柴を覗き込む。
「…大丈夫?さっきからうわの空だけど」
「………。」
美柴はカップは受け取らなかった。
その代わり、すっと身体が立ち上がる。
今の記憶のフラッシュバックは、美柴に何かを気づかせた。

「?…どしたの?」
静かに席を立った美柴に 久保田は小首を傾げる。
「……ちょっと…」
とだけ言って、美柴は足早に教員室を出ていく。

「……。」
何かに駆られて出ていった美柴の背中を、久保田は少し神妙な眼差しで見送った。




「…。」
さっきとは違う 静かな痛みが、胸を襲っている。
美柴は中庭に出て 辺りをぐるりと見渡した。

腕時計はまだ5時。まだ間に合う。

「……………。」
今更になって、とても大切なことに気がついた。

中条を必要だと言ってくれる存在は、この学園にいるのだろうか。
懐いている後輩も居るし 悪態を吐き合う教師も居る。
けれど、中条は多分いつもどこか一線を引いている。
今までの悪ふざけだってそうだ。
すべてを飄々と冗談にして。軽く鼻で笑って身を引く。

彼は誰とも深く関わらないように、周囲との距離を図りながらこの学園に居るのだ。

『俺はあんたにとってただの生徒か?それとも、特別なのか…?』
そんな中条が、あんな事をあんな顔で俺に言った。
あの時、図星を言い当てられた事に動揺ばかりが巡っていて、俺は気が付かなかった。

『気になっただけだ』
そんなつもりはなかったけれど、あの俺の言動はもしかすると中条にとって、距離を図りかねる苛立たしいものだったのかもしれない。
ノラ猫を気まぐれに撫でるような、そんな偽善に思えたのかもしれない。
だからあんなに辛そうに怒ったのだ。どっちなのだと。

そうして、きっと中条も…必要だと言って欲しかったに決まっている…。


「……。」
途方に暮れていたはずの心は、思ったよりも落ち着きを取り戻していた。
今考えるべきは、自分の抱える過去についてではない。自分の受けた痛みについてではない。
美柴は中庭の中央で、一度深く深呼吸をして ゆっくりと瞼を開ける。

破り捨てられた課題を、この一時間で拾い集める。
無理かもしれない。けれど、決めた。

自分が学生の頃、この閉ざされた学園で長く深く苦しんだ孤独。
中条には、あの痛みを刻みつけたくはなかった。
このまま終わらせたくない。

………何かの答えが、見え始めたような気がした。



…next


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