あの衝撃映像を見た日から、私の心は嵐の通り過ぎた荒野のようにその動きを失っていた。
「ショウ……」
走馬灯っておばあちゃんの家でしか見たことないけど、頭の中でこう、思い出が流れていくことってあるんだ、って変に感動したりもした。つまらなそうな顔、照れくさそうな顔、怒った顔、笑った顔、優しい顔……私の頭に流れたのは、他の誰でもないショウの顔ばかりだった。こんな風に私の中の全ての“ショウ”が入り交じって、掃除中の部屋で探し物をしているような気分になった。今目の前にいるショウの顔、見たことあるような気もするし、ないような気もする。
廊下を歩いていた私の右前にある曲がり角からショウは現れて、私に気付かないうちに私の前方を歩いて階段を下りていった。両手には重そうな教科書を抱えていた。そういえば今日の日直はショウだったかもしれない。
ツーンとさすような鼻の痛みをこらえて、私は身を翻して遠回りなルートを早足で行く。
(どうして、よりにもよって、岩瀬明紀なんかと仲良さそうに歩いてんの?)
山下菖蒲――私は彼女のことを“ショウ”と呼ぶ――は、中学校からの親友だ。
「おはよ、ナノ」
「……おはよ」
普段なら飛びかからんばかりの勢いでショウにまとわりつくはずの私の様子が変だということを感じ取ったのか、ショウが心配そうに聞いてきた。
「どうしたの? どこか具合でも悪いの?」
ショウの顔を見るなり顔を不細工に歪めて涙をこぼし始めた私に、ショウが慌てて事情を聞き出した。話しながら、私は改めてショウになら素直になれることに気付く。
「はぁ、そんなこと気にしてたの」
バカだなぁ、とショウが私の頭をポンと撫でた。それだけで私は瞼を熱くしてしまう。頭に優しく乗っかる温もりと重みが、底なし沼に沈みつつあった私の心をすくい上げてくれた。
「そんなことで泣かないでよ、本当はナノと一緒に行こうと思ってたんだよ? だけど、ナノがいなかったから私は一人で職員室に行ったの」
「だって、顧問の先生に呼ばれてたんだもん……」
そうだったんだ、と笑うショウの表情が、駄々っ子をあやす母親のように柔らかくて、さらに涙を誘われる。
「ナノがいなかったのは偶然。岩瀬が職員室にいたのも偶然。一人じゃ持ちきれない配布物があったのだって、偶然なんだから。そんなに気にしないで」
ショウが私の耳に口を寄せて小さく囁いた。その直前のきゅっと口を一文字に締めた顔は、確かに私の見覚えのある表情だった。私は頬が熱くなるのを止められず、涙はいつの間にか引いていた。
「私は、ナノが一番好きだから。ナノも私のこと信じてくれると、嬉しい」
そんな風に言われたら、もっと好きになっちゃうよ……。目でそう訴えたところで、ショウに伝わったかどうかは分からない。
幸せな気分ってどうしてこうも儚くて、暗い気持ちにすぐ負けてしまうんだろうって、気付く時はいつも落ち込んでいる。
「まぁたショウを困らせたんだって? 懲りねーなお前」
悪意の全くない表情で誰に対しても平等に接することが出来る岩瀬は、いわゆるクラスの「人気者」。
「え、どうしてそのこと……」
私は、ショウにしか話さなかったのに……「どうして」なんて聞くのは今更だった。
「ショウが言ってたぜ? 『またナノにつまらないことで悩ませちゃった』ってさ。ったく、いちいちお前のことでショウがあれこれ考えてんの、お前知らねーだろ」
しかも俺、つまらないことに分類されちゃったんだけど、と岩瀬は続けて明るく笑い飛ばす。
「知ってるよ! 見くびらないで!」
ショウ以外の人を前にすると、私はふざけるかムキになることしか出来ない。そんな自分が最近情けないと感じる。
ショウのことなら私は誰よりも知ってると思ってた。それは、ショウが私に真っ直ぐ向き合って、自分の中身を少しずつ打ち明けてくれるから。
(それなのに……)
「じゃあなんでショウが落ち込んでんだろうな、おかしー話だね」
どうしてあんたがショウのことを知ったような口を聞くの? どうしてショウはあんたなんかに愚痴をこぼすの?
どうして、私が知らないショウをあなたが知ってるの?
私は打ち明けられていない。本当に言うべきことが他にあるのに。
私は夜更かしが好きじゃない。寝るのが好きだという理由もあるけど、暗い闇が怖いからさっさと寝てしまいたくなるのだ。だから、深夜がこんなに静かな時間帯だということを今日という日まで知らなかった。
『ショウへ』
震える右手で書いたショウの名前がいびつに見える。まるで、知らない人の名前を書いたみたいだった。
急に手紙なんか書いて、嫌われたりしないだろうか。今の私は暗闇なんかよりも、ショウに嫌われることの方がずっと怖かった。
ショウが私に冷たい時はだいたい、私がふざけてる時だ。真剣な話は、真剣な顔で聞いてくれる。その態度の違いはきっと私にしか分からないんだと思う。私はそれを密かな自慢として胸に刻む。
「だからあたしは……ショウが大好きなの……」
口に出していってしまうと、ポトッと便せんに涙の染みが出来た。慌てて袖で拭っても、紙がグニャグニャになってしまって印刷された小さな花のプリントが薄くなってしまった。
「あ……ごめん」
一人呟いて、少し乾くのを待った。乾けば、余り目立たなくなるみたいだと分かって再びペンを取る。
『いつも一緒にいるのに、手紙は初めてだね。ちゃんと口言えればいいのに、こんな風な告白になってしまうこと、許してね。』
“ショウが私に真っ直ぐ向き合ってる”? だから“私はショウのことを何でも知っている”? ――私は一体何様だろう。本当にそうなら、こんなに虚しい苛立ちを感じているわけがない。
『今日はショウのこと、困らせちゃってごめんね。私、あんなに自分がわがままな人間だなんて思いもしなかったよ。それも、よりにもよって、ショウに対してだなんて』
私は、自分のことばっかりだ。ペンのスピードがどんどん落ちる。
『でも、黙ってるのが辛いの。言わなくていいことなのかもしれないけど、言わなくていいことなら言わない方がいいのかもしれないけど、ショウに黙っているのが辛いから、ここで言います。
今日、私があんなにわがままになってしまったのは、岩瀬明紀だったからかもしれないってこと、言いたくて。』
ここまで書いて、ペンを止める。ここまで来て私は迷っている。この手紙を書き終えたとしても、ショウに渡すまではこれはただの私の日記のようなもの。書いてしまうことには罪はないだろう。
「だって……嘘をついてるみたいで嫌なんだもん」
受け入れてくれなくていい、嫌われてもいい。後で変な風にショウの耳に伝わることの方がずっと……嫌だから。
『私ね、昔、岩瀬のことが好きだった。岩瀬に近づきたくて、ショウと仲良くなろうとしたの』
書いてしまって、私は一度その手紙を破り捨てた。
「言いたく……ないよ……」
――ねえ、誰か教えて。
自分の全てを知られることが、本当の親しさなの?
「……これ、読んで」と一言添えてショウに手紙を渡した日、私の目は睡眠不足を流し続けた涙のせいで充血していた。ショウの不安そうなまなざしが何事かと聞きたそうにしていたけど、私はそれをいつもの笑顔で制した。
「だ、誰もいないところで読んでねっ」
一言そう言い添えることを、私は忘れなかった。
いつどこで読んだのだろう、その日の放課後にショウが真剣な目で私を誰もいない教室に呼んだ。
「手紙……読んだよ」
初めて聞いたよ、岩瀬のこと。ショウは無表情に言い放った。眩しい夕日が射す教室の中で、目の前が真っ暗になるのを感じた。嫌われたんだ、一番大好きな人に――心臓が暴れだして、体中に共鳴する。
「ごめんな……さい……っ」
男とか女とか気にしていなかったつもりだったけど、やっぱり過去は変えられない。私は、岩瀬明紀のことが好きだった、という事実は、泣いても笑っても――ショウのことがこんなに好きでも――消えたりはしない。
「全部知ってほしいの、私が頑張って隠して、綺麗な状態を保ってる『私』だけを見てショウが私を好きだと言ってくれるなら――そんなの、騙してることと一緒だと思うから」
気分のままに生きる私がずっと好きでいたいと思ったあなた。いつだって論理的で、言葉の一つ一つに重みのあるあなたに、私はいつも憧れる。そしてそのまま、私の「好き」とあなたの「好き」の重みさえも違ってしまうなんてこと……私には耐えられないと思った。
教室の窓際の手すりに背中を持たれかけて、胸の前で腕を組んだショウの顔には、少し余裕があるように見えた。
「ナノは私のものだよ、少なくとも今は」
「少なくとも、今は」。それはショウが私の過去を受け入れてくれたからつけてくれた一言なのか、ショウもいつか昔の私のように私のことを思わなくなるような日が来ると暗に言おうとしたからなのか……。心にちくちくと刺さる些細な言葉さえも無視できないほど、今の私自身がささくれていて。
「今のナノが形作られた全ての過去を、ナノが教えてくれると言うなら私はその全てを受け入れる。どんな過去でも構わない、その過去が今のナノを苦しめるくらいなら私は全てを赦す」
だって、今のナノは私のものだから。ショウはさっきの言葉を繰り返した。心がキュッと締め付けられる言葉だ。
「私がショウのものでも、ショウが私のものだって思えるほど、私は私に自信がないよ……」
そんなのは、自信じゃない、とショウが笑った。
「ナノは自分の気持ちに素直だから、私にも分かるんだ。それだけのこと」
「怒らないの? ヤキモチも妬かないの?」
「そうしてほしいんでしょ、分かりやすい」
寂しそうに笑いながら、ショウが私の頭を撫でてこう続けた。
「言葉にしなきゃ、分かってくれない?」
あ、この顔――。
「言葉で『好き』って言わないと、私の気持ちはナノに伝わってくれない?」
……ずるい、そんな言い方されたら、信じちゃう。本当に言ってほしいことを言われないまま……。
そんなの、ずるいよ。
「言ってくれないと、分かんない。言ってくれないと、不安になるから」
私のわがままで、ショウのずるさと差し引きゼロになりますようにと願う。
「わかった」
私がいつも憧れる長身に、私のちっぽけな身体が包まれた。
「なのは、大好きだよ」
久しぶりに聞いた、私の本名、「なのは」。菜の花の花言葉にちなんで、快活で元気いっぱいな女の子に育ってほしいと両親がつけてくれた名前。
……ほら、あなたはそうやって私の不意を討って私が確実に喜ぶようなことをしてくれる。
夢じゃないんだと現実を噛み締めながら、私は溢れそうな涙をこらえるので精一杯だった。
「はい、バレンタインのお返し」
市販の袋に詰められた焼き菓子を渡すぶっきらぼうな彼女の素振りが、ただ私だけが見れる表情だったんだと思うと、今まで以上に彼女が眩しく見えて私は思わず彼女に抱きついた。
「だからさー抱きつくのはもう卒業しなって」
「絶対やだ」
キュッとかわいらしくなるようにショウを上目遣いで見つめてみた。迷惑そうな表情に見え隠れする、どこか照れたようなはにかみが、私の心をくすぐった。
(もう、どうしてこんな顔が出来るの……?)
そういう顔、もっと見たくなっちゃうじゃん。
「私は一生ショウから卒業しませーん」
「こら、甘えるな」
ショウの長い中指が繰り出すデコピンを、でへへー、とだらしなく笑いながらかわす。こういうやり取りは、毎日のことだったから。
そう、私の毎日は他人にとってはどうでもいいくらい、私にとって幸せ。
『P.S.だいすきだよー!』
《あとがき》
バレンタイン企画の続編ということで、ナノちゃん視点で書いてみました。無難な手法ではありますが、このやり方、嫌いじゃないので。
遠回しな言い方が本音を表すこともある、というのが日本語の面倒なところであり、同時に奥ゆかしくていいところでもあるでしょう。気持ちはいつだって言葉にしてほしい、でも本当に言葉にしてしまったらそれ以上でも以下でもなくなってしまいます。
言葉は心を上回れないと、いつも思いながら文章を書いています。小説も、手紙も、メールも。……だって言葉で気持ちの全てが伝えられたら、本当に気持ちを伝えたい人に会わなくたっていいじゃないですか。
……と思ったので、ナノちゃんの手紙の内容は追伸以外オールカットです(笑)
ご精読ありがとうございました。