「ほな、よろしゅーたのんます」
 転入生はそう言ってニカッとはにかんで見せた。そうして、窓側の一番後ろの席に着いた。歩く姿勢が美しかった。
 そんな人のことはさらりと一瞥し、佳代は窓の外の初夏の空から目を離した。
「起立」
 教室に、乾いた声を響かせる。副級長という役職はかなり地味で、こんな仕事しかない。
「礼。ありがとうございました」
 今日の朝会が終了した。クラスメイトは皆てんでバラバラに、各々の友人の元へと駆け寄る。佳代は淀みない足取りで黒板の前まで向かい、黒板消しを手にする。そして、まだ何も書かれていない黒板を、隙間なく睨みつける。一平方センチメートルの曇りさえも許さない。
 ……昨日頑張っておいて、良かった。
 少し安堵して黒板消しを置き、チョークの補充を確かめる。白、赤、青、緑など色とりどりの棒が整然と小さな引き出しに敷き詰められている。全色、二本ずつある、よし。
 中学生の頃から、佳代は黒板拭きの作業にある種の職人的こだわりを持っている。たまに、やってくる教師が口々に賞賛の言葉をかけてくれる。初めは照れ臭くて、くすぐったい気持ちだったが、使命感さえ持ち始めている今の佳代にとってはもう、なんとも思わなくなった。
 この日一時間目の英語の授業。受動態の学習をした。先生は必死な面持ちで、
「この目的語──Oだね。これが主語として前に来て……」
 たくさんの例文を書いていた。
「だからOがVさ、れ、る、っていうことになるんだね。それで……」
 先生はどうして字を消した時に残る白い粉まみれの面をそのままにしておけるのだろう。どうしても不思議に思ってしまう佳代は、授業が始まって数十分後にはいつも歯がゆい思いに苛まれ、そして使命感に燃えるのだ。
「……以上、終わりっ」
 先生の使命、終了。佳代は再び乾いた声を張り、精一杯美しい礼をしてみせる。佳代は、四十五度より浅く、三十度より深い礼が好きだった。……そんなこだわり、誰も知るはずがないというのに。
 廊下にある黒板拭きクリーナーを唸らせ、黒板の元へ向かい、まずは先生の授業の痕跡を無くすかのように優しく撫でながら消す。この時点から「真っ黒く」消そうとすると、逆に白いチョークかすが伸びてしまうということを、佳代は既に心得ていた。半分消し終わるだけで右手の水分はチョークの粉に奪われ、パサついてきている。
 消し終えている左半分に、人の気配を感じた。
「俺も手伝ってええか?」
 転入生だった。「ええか?」と聞きながら、もう既に左手には黒板消しが握られている。
「触らないで、私の仕事よ。あなたなんかに任せられるわけないじゃない」
 ……と正直に言っても良かった。私の聖域だと言っても過言ではなかった。
「……ええ、いいわ」
 結局、こんなことしか言えないのだが。
「ほんまけ!  良かったぁ、拒否られるかと思うたわ」
 なぜこんなにも嬉しそうな顔をするのだろう、この人は。手伝ってくれているので、憎めなかった。転入生はなかなか上背が高く、佳代が苦労して背伸びをして拭く一番上の十センチメートルの範囲も拭いてみせた。少し嫉妬した。でもそれ以上に、作業が丁寧で感心した。
 黒板が満足に黒々と輝いたのは、終業のベルの五分後で、いつもより二分早かった。
「やー、副級長さんのが、消すの上手いなぁ」
「それ程でもないわ、転入生さん」
 お互い本当に名前も知らず、名乗る必要もないと思った。
「これからも副級長さん、手伝ってええ?」
 佳代は少し迷ったが、
「少しよ」
と言って、転入生の力量を認めた。
「ほな、握手なっ」
 それは力強く、あたたかい握手だった。
 今日も佳代は、使命を果たした。ただそれだけの話である。
 やがて転入生は周囲から「草間」「草間君」と呼ばれるようになり、佳代はもともと「藤さん」と呼ばれている。それでも二人は「副級長さん」「転入生さん」と呼び合い、黒板を消し、たまに雑談を交わす仲になった。互いに交友範囲がさほど広くないということもあり、必然的に二人が一緒にいる時間は長くなっていった。


 ある日の話。不注意とか無防備とかそういう話以前の……要するに、偶然が起こした話。
 休日の街の中、佳代の焦点はある一人の人物に結びついた。周りの気圧が下がったかのように、心臓は内部からかなりの圧力を上げている。
「功輔さん……」
「佳代……? どうして」
 どうしてこんなところにいるかとか、どうして今名前を呼んでしまったのかとか、元カレなんかに問われる筋合いはない。呼吸が苦しい。これ以上会話を続けることはあまりにも危険だと判断した。踵を返し、何よりもまず物理的な距離を取ることを考える。
「ちょ、ちょっと待って」
 佳代のそんな小さな抵抗も虚しく、彼は佳代に追いつき、駆け寄って、手を取った。振りほどこうと思えば、振りほどける力加減。変わらない、ずるい男だと思った。どうにかして温度を下げて無理やりに固めていた冷たい思いに、熱いドライヤーを吹きかけられているようで、佳代は涙をこらえるのがやっとだった。
「……少しだけ、話そうよ」
 彼の言葉は、どこか躊躇いがちだった。「少しだけ」という言葉を信じて、言葉もなく頷いた。路地に入り、低いブロック塀に腰掛ける。
「元気、してた?」
 この日二言目の佳代の言葉。事実だけ見れば感動の再会であるこのシチュエーションに、つまらないけど悪くないと思った。
「ああ、まあそれなりに」
 長い会話が続かない。懐かしい、けれど昔とは確実に違うということを思い知らされた。
「彼女いるの?」
 そうして、一番聞きづらいことが口をついた。私はもう、他人なのに。だから――
「ああ……まあな」
 ――こんな質問で傷つくなんて、フェアじゃない。
「ごめんね、辛い思いさせて」
 薄い眉を下げ、彼は謝った。頼りない印象を与えるからコンプレックスなんだと笑っていたその眉は、優しげで好きだった。
「佳代に夢中だったよ。俺のわがままにたくさん付き合ってくれたのに、突然連絡を絶ってしまったりして。佳代の大切な時間を俺のために奪い続けることはしたくなかったんだ。
 ずっと、謝りたかった。本当に、ごめんね」
 会えて嬉しいよ、と彼は最後に付け足した。本当はそんなこと思ってないくせに、と思いたかった。彼の言葉は佳代の心にまっすぐ刺さり、切っ先からじわじわとしみてゆく。魔法のような、薬のようなものだった。佳代、と彼が懐かしい声で呼ぶので、彼が気に入っていた控えめな上目遣いで振り返る。
「綺麗になったな、すごく綺麗だ。やっぱり、二年って長いな」
 慈しむような眼差し、佳代はその奥をじっと見つめる。
「もう、大丈夫だから。忘れましょうよ」
 燃えるような溶けるような、絶対に自分しか見えていないんだと確信できるものが、あの頃の彼の瞳にはあった。それを探るように佳代は彼の瞳を見つめ続けたけれど、
「昔のことでしょう?」
 あの頃あれほどに心惹かれていたそれは、そこにはないと感じた。もしかしたら今再び燃え始めているのかもしれないけれど、少なくとも今の佳代には反応するものがなかった。
 今までずっと、心の温度を下げることばかり考えてきた。少しずつゆっくりと時間をかけて、いつかこの気持ちが、小ぢんまりと固まってくれたらそれでいいと思って過ごしてきた。余計に綺麗な結晶なんか作らせまいと、湿度も下げてあげて管理してきたと思っていた。
 日中でも日陰に隠れるこの場所で、ブロック塀はひんやりとしている。もう話はこれまでと切り出すつもりで立ち上がり砂を払うと、倒れそうになるくらいの勢いで彼の身体に包み込まれた。身体を捕らえる力強い腕は苦しくてすごく温かくて、佳代は悔しいと思った。
「この三年間、味気ない時間だったよ。楽しかったこと、佳代との時間を考えるだけで……」
 失った時間を取り戻すかのように、彼は佳代の首筋のあたりで呼吸をする。このままだと、私が私でなくなってしまう……佳代は焦った。今のかよに取ってそれは、大きな問題であった。
「また、俺の勝手で申し訳ない」
 どうしてこんなにも乾燥した私になったの? 誰が私をこんなにパサついた人間にしたの?
「やり直そうよ、佳代」
 あなたじゃない。
 私はいつだって、あなただけを見ていたのに。


「おはよーさん、副級長さん」
 ニパッと明るく笑う転入生。佳代は何も言わずに、少し頑張って微笑んだ。今日の黒板はチョーク受けのあたりがピンク色に濁った粉にまみれ、長くて新しいチョークが埋もれるほどだった。
「ほな、今日も頑張りまっせ。黒板消し貸してみぃ」
 副級長さん、ここ届かへんもんなぁ、と転入生は心から楽しげな顔をして、黒板の上から十センチメートルのところを背伸びもせずに拭いてゆく。
「これでも成長したわ。昔とは違うの」
 彼は、ちょうど転入生と同じくらいの背丈だったように思う。その彼に昨日抱きとめられた身体を、不本意ながら持て余してしまっている。苦しくて懐かしくて、それだけに昨日佳代が負った傷は深かった。腕を解かせ、もう一度しっかりと「もう、大丈夫だから」と言ってきた。「さようなら」「元気でね」と畳み掛けて、ようやく彼に背を向け逃げ帰ることができた。
 そう、私はもう大丈夫。大丈夫なの……。
「大丈夫?」
「えっ」
「え、いや……めっちゃ苦そうな顔しとったで?」
 心の声が聞かれているのかと思って、佳代は狼狽えた。膝に力を入れ直して、答える。
「ええ。チョーク受けの掃除で、手がちょっと荒れたみたい……嫌ね」
 少し無理があったかもしれないが、不自然でもない――思うことにした。まぁどうしまひょ、とおどけて、転入生は笑ってくれた。その眉の下がり方が、優しかった。
「そだ、副級長さん。図書室の場所教えてくれへん?」
「ええと……中央棟の真ん中の階段を三階まで登って左に曲がって、すぐのところよ」
「中央棟ってどこやねん! 昼休み一緒に来てくださいまし〜」
 昼休みにすべきことなんて、何もない。たまには教室を出るのもいいだろう。了承の返事をして、自席に戻る。再び彼のことを思い出した時、このやり取りの最中だけは彼のことを忘れていたことに気づいた。

「なーんや、階段上がったらもう看板見えとるやん」
「それくらいしないと、図書室なんて誰も来てくれないでしょう」
「そーなん? 俺は好きなんだけどなぁ」
 図書室に着くと、転入生は図書室全体をゆっくりと見渡し、まずカウンターに向かった。
「……そこに本はないけど」
 頭の上に「?」マークを浮かべたような顔をして、それから転入生は豪快に笑った。
「俺、図書委員なんよ。今日は当番やねんて」
 苦しそうにそれだけ言って、また笑い出した。カウンターに本があるわけないやんかぁ、それくらい分かるわぁ。
 こんなことでこんなに笑える転入生がなんだか可笑しくて、佳代もつられて笑った。昼休みの冒頭、図書室には転入生と佳代と、数えきれない本たちとがあるだけだった。
 二人でひとしきり笑って、涙も拭って、笑えとるやん、と転入生は言った。
「笑えとるやん。副級長さん、やっと笑うてくれた」
「え?」
「副級長さん、ずうっと苦い顔しよったやん。いつもは堂々としてクールにしてるけど、今日はちゃうやろ。だから笑ってくれて、ホッとしたわ」
 そしてまた、ニパッと笑ってみせるのだ。どうしてこの人の笑顔は、少しの曇りも感じさせないのだろう。
「聞かないの? 何があったか、とか」
 今なら素直に話せると思った。聞いてくれるのなら、涙が枯れるまで泣いて声が枯れるまで話して、それでも足りないくらい彼には全てを見せて甘えたかった。
「無理には聞かへんよ。誰にだって、秘密とか言いとうないことくらい、あるやろ」
 転入生は、側にあったパイプ椅子を自分の隣に引き寄せ、ぽんぽんと片手で座面を叩いた。私はカウンターの内側に回り込んで、鼻の奥がツンとしみるのを我慢しながらそこに控えめに座った。
「副級長さんが言いとうなったら、言えばええやん。俺から聞くことやない」
 俺ならいつでもスタンバっとるでぇ、と力こぶを見せられる。シュッとした身体の印象よりも、筋肉のついた腕だった。
 鼻の奥の痛みの先に、佳代は綺麗なものを見つけた。渇きを潤す流れが、自分を本当に労っているからこそ出てくる優しい言葉が、本当に自分が望んでいたものであったと知る。
 カウンターに伏せて、涙を流す。涙を見せないようにするのと声を立てないようにするのは、精一杯の意地だった。
「……我慢すんなって、な?」
 頭に大きな掌が触れ、ゆっくりと撫でられる。この人の前では、16歳の女の子でいていいんだ。
 抑えきれずに溢れる佳代の嗚咽は、昼休みいっぱい続いた。


「今度は、長崎の方に引っ越すことになりました。四ヶ月という短い期間でしたが、ほんまに皆さんありがとうございました」
 転入生……はそう言って、いつものようににっこりと笑うだけだった。笑顔を直視できず、ほかの同級生たちのように拍手で送ることもできず、佳代は外の景色を眺めるフリをしてその場をやり過ごした。いつもと変わらない景色は気を抜くとぼんやりと滲んでしまう。澄んだ秋の空さえも、その美しい輝きで転入生を見送っているように見えた。
 終会もまた、佳代の号令で終わりを告げる。『ありがとう、草間卓くん!』とデコレーションされた黒板を消すのも佳代の役目だった。
「俺も手伝うで」
 転入生……否、転出性が声をかけて、手早く黒板を拭う。一番上から黒板消しを真っ直ぐに下ろすように、丁寧に拭いていく。
「随分また、遠くに行くんだね」
「そやなぁ。……なぁ」
 目も合わせずに、彼が尋ねた。
「放課後、図書室行かへん?」
 佳代もまた彼を見ずに、そっと頷いた。

 職員室に挨拶してから向かうから、と彼は図書室に私を待たせた。遅れてきた彼は肩で息をしながらこちらに向かってきた。
「すまん、待った?」
 ううん、全然、と佳代は笑ってみせる。実際、今日は時間の経過が早いと感じていた。
「忙しいお父さんなのね。四ヶ月しかいないし、遠くに行くし」
「ちゃうで。俺、父さんおらんし」
「あっ……ごめん……」
「あーあー、気にせんで気にせんで。大阪で父さんと離れてな、とりあえず母さんの実家だったここにきて。それからまたちょっと色々あって長崎行くねん」
 『それからまたちょっと色々』と言ったときの複雑そうな表情が、佳代の胸をチクリと刺した。
「知らなかった……」
 知らなかった、気づけなかった。自分になら気づけたんじゃないだろうかと思えば思うほど、悲しみは深く心に刻まれた。
「なんで落ち込むねん。そういう風に俺も頑張っとったんやって。まぁでも初めはしんどかったけどな、そんな時その、佳代ちゃんが背伸びしながら黒板吹いてるんを見て、なんか可愛かってん。声かけてもうた……」
 恥ずかしそうに語尾をごにょごにょと誤魔化す様子がくすぐったい。
「すぐ転校かもしれんってなんとなく分かってたから、好きになったら俺が辛いだけやろな〜って思ってたけどな。いつも一緒に居ってくれたし、話してると楽しいし……佳代ちゃんのことどんどん好きになった」
 ハァー言ってもうたぁ。両手で顔を覆うも、赤くなった耳は丸見えだった。大きい手なのに、緩み切った表情も隠しきれていない。
「俺さ、人のこと好きになるとかよく分からんかった。佳代ちゃんのことも最初は、かっこええなとか可愛いなとか、単純な気持ちしか持たんかった。でもな、元気ない佳代ちゃん見たとき、すごく心配で不安になって……」
 心臓が煩い。怖い、でも最後まで聞きたい。何をいうつもりなんだろう、もういなくなるっていうのに。恐れと期待と不安と緊張と、いろいろな感情が、佳代と彼の周りの空気を絶えず緩ませたり張ったりと繰り返す。何を言うの? 何を言ってしまうの?
 もう何も、聞きたくないのよ。
「もういい。……ありがとう」
 自分のことしか考えてないあの元カレは、14だった私にうつつをぬかしたいい歳したあの男は、簡単に私を抱き寄せたりしたけれど。
「佳代ちゃ……」
 長崎? 追いかけることなんてできない。
 16歳? 追いかけられることなんか、期待できない。
「私は、大丈夫だから。元気でね」
 本当に好きなあなたのことを、追いかけることもできない。
 本当に好きなあなたに、追いかけられもしない。
「……さようなら」
 図書室を飛び出し、廊下から家まで一気に駆け抜ける。
 大人だったら良かったのに。大人だったら良かったのに。ずっと頭の中で繰り返したのはそんな言葉だった。でもずるい大人になったら、無邪気に笑うあなたには出会えなかったかもしれない。そう思っては涙を流した。
 やってきた週末は彼と佳代とを綺麗に隔て、二人が再び会うことはないと教えてくれた。


 今日からまた、以前のような日々が始まる。ただそれだけのことであるはずなのに、佳代はなかなかベッドから出られなかった。また黒板を一人で消さなければならない。あの一番上の十センチメートルは、どうすればいいのだろう。三年前に嗅いだ風の香りが押し寄せる。
 父の出勤に続いて、ようやく家を後にする。家には母が残る。そんな、当たり前のことを思うだけで、こんなにも胸が苦しくなる。
 いつもの通学コースである川沿いの土手を歩くと、道端にはエノコログサが群生していた。一本だけ引き抜いて、穂先を揺らして遊ぶ。仲間から離れてしまったくせに、少し揺らしてやるだけでふわふわと元気に跳ねる猫の尻尾のような花。
 彼がそうだった。いつも、黒板を吹く仕事はチャキチャキと動く癖に、顔ばっかりふわふわと笑っていた。
 佳代はおもむろに、エノコログサの茎を噛んだ。グッと噛み締めたところから苦味が口中に広がって、それでも涙は止まらなかった。
 また、苦い顔してたかな。でも、この草が苦かったんだもの。
 佳代の心の中にいる彼は、そんな佳代の言い訳に苦笑いしているようだった。

【了】
 

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